コクリバ 【完】
「へ?あぁ、市原先輩ですか?
美大に推薦で……って聞きました、けど……」

先輩、知らなかったんですか?

その言葉は言ってはいけないような気がして、呑み込んだ。

「そうか。美大か……あいつらしいな」
「はい」
「おまえは?おまえも美大に進むつもりか?」
「いえ、私なんて、とんでもないです」
「他に行きたいとこあるのか?」
「私は、まだ……全然、決めてないです」

本当は高木先輩と一緒のところに行きたいけど、自衛隊は……

「そうだな。俺も1年の時は、なんも考えてなかったな」
「そうなんですか?」
「あぁ。ただバスケがしたいとは思ってたな。
緒方さんみたいに、大学でバスケがやりたかった」

先輩の左手が、私の耳たぶから離れていく。

それがどうしようもなく寂しく感じたから、思わず先輩の左腕を掴んでしまった。

「あ、あの…」
「そんな顔するなよ。もう吹っ切れたことだ」

私はどんな顔をしていたのだろう。

ただ触れてはいけないところに触れてしまったという感じがした。
高木先輩が表には絶対に出さない部分に……

「親父は、仕事を辞めたんだ。母さんが死んですぐに……今の生活費は兄貴が出してくれてる。だから今度は俺が弟の分を稼がなきゃいけないってことだ」

たいしたことないという風に言い終わると、先輩がすっと立ち上がった。
私は、今の言葉を理解するのに時間を要していた。

先輩の家庭環境をこの時まで全く知らなかった。
呑気に、先輩の横にいられることだけを喜んでいた自分が恥ずかしい……
どんな言葉をかけたらいいのか、と言うか、どんな態度をとったらいいのか分からなかった。

だから先輩が、私の後ろに座ったことになんて気が付かなかった。
先輩の腕が私の両側からすっと伸びて、背後から抱きしめられた時、私には突然のことに思えたから本当に驚いた。

「ヒッ……」
「なにビビってんだよ」
「せ、せんぱ……」

高木先輩が私の後頭部に顔を埋めている。

なんだか切ない。
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