コクリバ 【完】
ただ、一人暮らしは時にとても寂しくなることがある。

仕事で疲れた時もそう。
誰もいない家は、余計に疲れを感じさせる。

そんな時、私は一軒の珈琲店に立ち寄るようになった。
短大時代に見つけてからひっそりとお気に入りの場所。

駅前の大通りからアパートへと向かう途中の道を少し横にそれたところにある珈琲店。
きちんと手入れされた植え込みの間のレンガ敷きを行くと重厚な扉があり、その扉を開けると珈琲の良い香りが漂ってくる。

オールドウッド調の店内はオシャレで、なによりその名前にまず惹かれた。

『カフェ・ド・マティス』

私の好きな画家の名前。

変なところで美術部だった頃の影響が出てくるけど、
芸術なんてもう信じてない。
1枚の絵に何億というお金を出す人たちを、素直な目で見られない。
結局見る人によって絵の意味なんて変わってくる、と思っている。

だけど、マティスの絵は好きだった。

裸の女が数人手を繋いで踊っていてシンプルに描かれた絵は抽象的で、どうにかすると私でも描けちゃうんじゃないかとすら思えてくる。

そのマティスの絵が入口から入って右手の壁に掛けられている。

「おかえり」

髭を生やした怪しげな風貌のマスターの低い声もこの雰囲気にあっている。

「こんばんは」

ところどころギシギシなる床を通って、カウンターの一番端に座る。
壁に掛けられた絵が一番見やすいここが、お気に入りの場所。

「夕飯も食べる?」

絵のほかに写真もたくさん飾られているここは、どうかするとアートギャラリーみたいな雰囲気。

「ううん。ブレンドだけで……」
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