ここで息をする
In the water
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人間は、水の中で息が出来ない。
そのことは、産まれた瞬間から身体が知っている。
だけど大きな水槽のような長方形のその場所に飛び込んでしまえば、そんな当たり前のことさえ忘れて無我夢中になれた。
まるで空の色を映したような、鮮やかな水色のプール。その中を、魚にでもなった気分で自由に泳ぎ回る。すると身体に水が馴染み、水の中でも呼吸が出来ると錯覚するんだ。
もちろん、泳いでいる間は呼吸を止めている。肺の中に酸素を吸い込むのは息継ぎの瞬間だけ。
実際には息なんて出来やしない。水中で息をしようとするなんて、息が出来ると思い込むなんて、危ないにもほどがある。
――それでも、私はここで息をしている。
不思議と、そう思えていた。
全身を包む水の感触。肌が感じる水の温度。掻き進める水の世界。
私を取り巻く水のすべてが、まるで私の生きる場所そのもののように私を受け入れてくれる。だからここに居れば、本来なら不可能な呼吸さえも出来てしまいそうだった。
息が出来る。身体じゃなくて、心が。
水中に居るとき、泳いでいるとき。私はきっと誰よりもそこで自由で、何よりも泳いでいる瞬間が好きだった。
本当に、大好きだった。
……だけど、今となってはもう、無邪気に好きだと言える私はここに居ない。
泳げば泳ぐほど、必死にもがいて息をしようとするほど、身体から漏れる気泡とともに“好き”と感じる心の欠片がこぼれていくだけ。
好きな世界。大切な場所。
それなのに、あの水の中に居ると徐々に息をするのが苦しくなっていく。どれだけ泳いでいても、置き去りにされた心が溺れて泣いている。
そんな変化を迎えた現実がつらくて、好きだった世界から“好き”が消えていくのが嫌で……。
私は、ここから遠ざかることを選んだ。
この場所をいつか心の底から嫌いになってしまう未来を恐れて自らこの手を放してしまうほどに、すべてが限界を迎えていた。
あの頃の私は、息苦しさで埋もれていくあの世界を手放すことで精一杯だったんだ――。
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