ここで息をする
振り払うことも出来るはずなのに、不思議と先輩の手から離れられなくて。波立つ鼓動に戸惑いを抱きながら、どうにか視線だけは逃れようと水面を見つめた。
そんな私の鼓膜を、真綿で包み込むような柔らかな声が揺らす。
「今日、ずっと難しい顔してたからさ。必死に台本通りに泳ごうと頑張ってくれてるのは嬉しかったけど、心配してたんだ。頑張るほどに背伸びしてるような無理が見えてたし、どんどん波瑠の自然さが消えていく気がしてたから」
「……だから、あんなアドバイスをしてくれたんですね」
休憩スペースで先輩がくれた諸々の言葉を思い出す。過去の記憶から大事な感情を思い出すきっかけをくれた言葉を。
ちゃんと私を見てくれていたから、先輩はああ言ってくれたんだ。演技という形に囚われすぎな私から、私らしさを引き出すために。
「……よかったよ。波瑠が自分らしい泳ぎを見つけられて。波瑠は楽しそうに泳いでる方がいいな。どんなに速く泳ぐよりも生き生きしてて、すごくいい泳ぎだと思う」
ようやく落ち着いてきた心地良い心音を感じながら、優しい声に導かれるように先輩を見上げると、慈しむような笑みを携えていた。交わった視線には、今日の練習は合格だという称賛が含まれているみたいだった。
ただ好きなように泳いだ姿に対する褒め言葉が真っ直ぐすぎて、何だか照れ臭い。
「……ありがとうございます。先輩のおかげで、色々大事なことに気付けました」
演技のための練習とはいえ、少しでもあの頃と同じ気持ちを味わえて嬉しかったのは確かで。その素直な気持ちを言葉にすると、先輩への感謝の思いが溢れそうなほど湧いてくる。
頬に触れている彼の手に、自分の手をそっと重ねた。ありがとうを目一杯込めるつもりで、心からの笑顔を添えながら。