ここで息をする
先輩が今日練習しようと提案してくれていなかったら、忙しい撮影の合間にこの気持ちや感覚を思い出すなんて到底無理だっただろう。現に今までの撮影や授業では、泳げば泳ぐほど苦痛を感じていたのだから。
じっくり水の世界と向き合う機会をくれたから、私は自分の気持ちを真っ直ぐ見ることが出来たんだ。
私の一部になっていた水泳を手放して以来、見ない振りをしていた水泳を好きな気持ち。
あの頃の苦痛がトラウマとなって残っているがゆえに、自分の中に存在していたそれを再び認められるような度胸は正直まだない。けれど、なかったことには出来ない大切な心であることは思い出せた。
一瞬でも楽しく泳ぐ感覚が甦ってくれたことは、私には十分嬉しいことだった。
「……俺のおかげなんかじゃねえよ」
私が重ねた手に瞠目し、慌てた様子で包んでいた私の顔をようやく解放してくれたかと思うと、先輩はぶっきらぼうな声で謙遜した。そっぽを向いて鼻先を掻く彼の耳は赤く染まっているように見えるから、お礼を言われて照れているのかもしれない。
「波瑠が自分の力で泳いで、自分で見つけたんだ。だからこれからも波瑠は波瑠らしく、自信持って今日みたいに好きなように泳げばいい」
それでも先輩は私の笑っている顔を改めて正面から見ると、自分も安堵したように顔を綻ばせながらそう付け足した。あくまでも自分は何もしていないという姿勢を貫くようだけど、私を突き動かしてくれたのは確実に先輩の言葉だと思った。
好きなように泳げばいい……もしかすると私は、ずっとこの言葉を待っていたのかもしれない。
息苦しくなってしまった世界の中で溺れながら、本当に欲しい救いの手を――。