ここで息をする


『だけど“ハル”にも、大事な思いがあるのは確かだろう? 上手いとか下手とか、大会とか結果のこととか、そういうもん全部取っ払ったら、おまえの中には何が残る?』


喉のすぐそこまで出てきている思いを形にしようか迷って、唇を中途半端に開いたり閉じたりを繰り返した。“コウ”が示すその感情は確かにあるはずなのに、上手く伝えられる気がしなくて難しい顔になってしまう。

息が詰まったように苦しげな表情で固まってしまった“私”を、“コウ”は急かしたりせずに待ってくれていた。

見守るような優しくて真っ直ぐな視線を向けられると、一番大事な気持ちをしまってある心の引き出しを開ける手伝いをされているような気分になる。ゆっくりと確実に、言葉を紡いだ。


『……泳ぐことが、好き』

『うん』

『“私”だって誰にも……“コウ”にだって負けないぐらい、泳ぐことが好きだよ』


複雑に絡まりつつもすべての思いに繋がる、たった一つの力強い思い。

タイムも上手さも“コウ”には敵わないけど、水泳を好きな気持ちだけは誰にも負けないぐらい“私”の中にある。そう確信すると弱気な自分を突き動かすパワーが生み出されたようで、下ばかり見ていた“私”の顔を上げさせた。

胸の奥に確かに宿る思いの温かさに、泣きたいような喜びたいような、何とも言えない下手くそな笑みを浮かべる。


『その気持ちがある限り、いくらでも人は強くなれると思う。だから“ハル”なら大丈夫だ』


秀でた才能もなくて自信がない“私”だけど、今なら“コウ”が言う大丈夫を信じられるような気がして、真っ直ぐ彼を見ながら頷くことが出来た。



***



「――カット!」


すっかり“ハル”になりきっていた私は、その声を夢から覚めるような思いで聞いた。

我に返ってプールサイドの方に振り返ると、満足そうに笑う高坂先輩の姿が目に入る。


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