ここで息をする
逃げた私とは逆方向に存在しているあの場所に、航平くんは居る。そして沙夜ちゃんも。
かつて私も居たその場所で、二人とは同じ時間を過ごしてきた。自由に、時には競いながら泳いでいた。
でも私はそのかけがえのない時間さえも否定するように、好きだった水泳をやめたのだ。そして、そこで繋がった絆さえも手放した。
そんな私を待つなんて……無意味だよ、航平くん。
手放してしまったものは、もう戻らない。息苦しさから逃れるために自ら好きだったものを遠ざけた私に、そんなことを言ってもらう資格はないよ。
信じてもらうなんて、私には荷が重すぎる。
「……ありがとう、航平くん。でもね、私……もう、泳ぐ気はないから。水泳はやめたんだよ」
「でも、また始めることだって出来るだろう? 肩だって、もう――」
「ごめんね。私もう行くから」
食い止めようとする声を振り切り、航平くんとは反対方向に足を向ける。そこでふと、あの先輩がまだそこに居たことに気付いて目を丸くした。すっかりこの人の存在が意識から離れていたから驚いてしまう。
航平くんとの一連の会話を聞かれていたのだと思うと、居たたまれなくなってきた。聞かれて困るというより、気まずい話を聞かれるのはもっと気まずいから。
航平くんに背を向け、先輩には軽く会釈をすることでもやもやした気持ちを誤魔化した。
会話を中途半端に終わらされて困惑している航平くんと、何故か私をまたじっと見据えている先輩の視線から逃れるように、とにかく足を進めて彼らから離れる。
鬱々とした心を取り繕うように口角を上げて、昇降口の外で待ってくれていた真紀と季里に「お待たせ」と声をかけた。
喋っていた二人が同時にこっちを見る。