大人にはなれない
プロローグ:大人になりたい
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プロローグ:大人になりたい。
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「なんだ思ったよりきれいじゃん」
ずっと家の押し入れに突っ込んだままだった箱の中から、新品みたいにきれいなバスケットシューズが出てきた。
俺が小学生のときに少しの間だけ履いていたもので、痛みや汚れはほとんどない。ちゃんと洗ってアルコールスプレーを掛けてから保管していたので、汗とかカビとかのヘンな臭いもしない。
これは3年前、12歳の誕生日に買ってもらった、たぶん俺が親からもらったプレゼントの中でいちばん高価なものだ。大事に使うはずだったのに、突然迎えた成長期にぐんぐん伸びていった身長と一緒に足のサイズも馬鹿みたいにデカくなって、すぐに履けなくなってしまった。
だからこのバッシュはもう俺には必要のない、持っていても何の意味も役にも立たないものだ。でも中学でバスケ部に入ることを諦めた俺にとって、これだけが小学4年生からの3年間部活でミニバスを真剣にやっていた証みたいなものだ。だから今までずっと手放すことが出来なかった。
けど。もし今誰かがこれを500円で買い取ってくれるって言ったら、悩んだ末にきっと俺は手放す。300円だと言われても、そのとき空腹だったら俺はきっと売る方を選んでしまうだろう。
いつか手放すなら、今手放したって同じじゃないか。そう思ってミニバスを辞めて以来初めてこのシューズを出していた。
「なあ由愛(ゆあ)」
呼び掛けると、同じ部屋にいる1コ上で高校生の姉ちゃんはちょっとムっとした顔して振り返った。
「由愛、じゃないでしょ。お姉ちゃんって呼びなさい」
「はいはい。なあ、おまえのガッコのバザーに、このバッシュ出せるんじゃね?」
「え……バザーに?」
「未使用品じゃないとダメなのか?」
「ううん、これだけきれいな状態なら出せると思うけど……」
学校から帰って来てからずっと『北野田高校恒例・バザーのおしらせ:各家庭から不用品(美品に限る)や手作り品など、バザー用品2~3点ほどご提供くださいますよう、ご協力お願い致します』って書かれたプリントとにらめっこしていた由愛は、俺とバッシュを交互に見てうろたえたように視線をさまよわせる。
「ウチみたいなビンボーな家に他に提供できるモノなんてねーし、これ持って行きゃいいんじゃね?」
「けどこれ……美樹くん大事にしてたものなんでしょ……?」
「べつに。履けないもん持ってても邪魔だろ。ゴミになるくらいなら引き取ってもらえた方が捨てる手間はぶけるし」
中古とはいえ状態がよくて、しかも有名なスポーツメーカーのものだ。
ウチには余りモノのタオルも石鹸もなくて何も提供品が見付からないと悩んでいた由愛も、これを持って行けば少しはガッコでみじめな気持ちにならずに済むんじゃないかと考えながらシューズを押し付ける。
「俺もうそれいらないから。バザーに出すのも出さないのも、由愛の好きにしていい」
なんの未練も興味もないフリをしてシューズから手を離す。でもそのとき、ちくりと鋭い痛覚が胸を刺した。まるでシューズごとミニバスを一生懸命やっていた過去の自分まで失ってしまうようなその喪失感は、何度もチクチク胸を刺し貫いてくる。
ほんとはこのバッシュは俺の大事なものだから、自分の手の中からなくなるのは全然平気なんかじゃない。……痛くて苦しい。
けど俺はきっと、これから何度も何かを諦めていくたびにこの痛みを味わうのだろう。そうして慣れていくのかもしれない。いずれ俺は痛みを感じることもなくなるのかもしれない。
-------もし大切なものであっても、必要があれば手放すことを選択できるようになることが『成長する』ってことなのなら。俺はきっと誰よりも先に大人になるんだろう。
誰よりも先に、俺は大人になりたい。
何も出来ない中学生なんかじゃなくて、痛みなんか感じない大人に早くなりたかった。
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