大人にはなれない
「……待って」
昔斗和のおじさんに貸してもらった三国志の本には、周瑜とか朱儁とか怒りすぎて死んだヤツがたくさん出てきたのに。なんで人は怒りで死ぬことがあっても、恥ずかしさでは死ぬことが出来ないんだろう。
心臓は痛みを感じるくらいドクドク打ってるのに、この程度の痛みじゃ死ぬことはない。どうしてこんな思いをしてまで。笠間に心をズタズタに殺されてまで。どうして俺の体は平気で動いているんだろう。
「美樹くん待ってよ!!」
振り返ると、いつから追い掛けて来ていたのか、階段の段差のせいで丁度同じ目線になった中村がいた。目が合うと中村がちいさく息を飲む。それが分かるくらい近い距離だ。
どの女子がかわいいとかきれいだとか、いままで斗和に話を振られても俺にはいまいち分からないことだった。でもこの距離で見て思う。
中村は美人だ。
顔のパーツが左右対称で、目がくっきりしてて、顔がちいさくて。すごくきれいな女の子だ。中村はそのきれいな顔を歪ませて俺に詰め寄ってくる。
「ねえ美樹くん。さっきバカ間のヤツが給食費滞納って言ってたけど、どういうこと?………もしかして美樹くんのお家は」
中村が突然言葉を切ったのは、強引に俺に引き寄せられ唇で口を塞がれたから。
いちばん知られたくない相手に、いちばん知られたくないことを知られてしまった恥ずかしさとか悔しさとか悲しさとか。そんなものがものが胸のなかでごうごうと渦巻いていた。
いっそ目の前にあるきれいなものを捻り潰してやりたい。そんな暴力的な衝動だけで無理やり中村にキスをしていた。
「………うっせぇよ、おまえ」
驚きのあまりなのだろう、中村はぴくりとも動かなかった。俺の顔も見ることすら出来ずに、フルートを持ったまま呆然としている。
俺はまた、貧乏人って嘲笑されるよりマシだって理由を盾にとって、中村を傷つける方を選んだ。面と向かって中村から傷つけられるくらいなら、自分が先に中村を傷つけてしまえって。
------笠間より、最低じゃないか。クズなのはあいつじゃなくて俺の方だ。
「………美樹くん………?」
中村に震えた声で呼びかけられて、こみあげてきた罪悪感にたまらなくなって駆け出した。呼吸をするごとに自分が醜く腐っていくような失望と一緒にただひたすら走る。
生まれてはじめて触れた、女子の。中村のくちびる。やわらかで、やさしくて、あまくて。
俺が手の届かないものすべてをより合わせていったら、きっとあんな形になるんだろう。そんなしあわせの形の、中村のくちびる。
でも俺のそこには、いつまでも苦しい余韻しか残らなかった。まるで罰であるかのように。