大人にはなれない

「……いつも悪いな」
「だからおまえみたいなキャラが急にしおらしくお礼なんか言うなっつの、バーカっ!」


言いながら斗和がノートを閉じる。


そのとき、隣のページの上に書かれた『由愛ちゃん』という文字と、『正』の字にはならないままになっている棒線がちらりと目に入った。

俺の視線に気付いたわけじゃなかろうに、斗和は「由愛ちゃん元気?」と突然その名前を出してくる。俺の方がうろたえて何も答えられずにいると、斗和はまるで由愛との間に何事もなかったような調子で話しかけてくる。


「由愛ちゃんさー、最近ぜんぜん『ヘアサロン・斗和』に来てくんねーんだよね。やっぱ『100回髪の毛切ってあげたら1回エッチなことさせてもらう』っていう条件がダメだったんかな~。せっかくおっぱい揉ませてもらうつもりだったのにー」
「……つぅか100回とかないだろ。たまるわけないわ」


そんなふうに応酬しつつも、斗和の顔を横目で盗み見ていた。けどポーカーフェイスじみた笑顔からは、どんな感情も読み取ることは出来ない。

斗和がほんとうに由愛に会いたがっているのか、そうじゃないのかわからない。けれどそれは俺が踏み込んでいいことではない気がする。

俺は何もきかずに、店の奥のロッカーからホウキを取り出す。床に散らばった髪の毛を斗和と一緒にホウキで集めて後片付けをしていると、時刻はもう20時近くになっていた。



* * * * 



「はいはいミキちゃん、もっと飛ばしてねー」

俺の肩に掴まった斗和が、自転車を漕ぐ俺にそう言ってくる。

「アホか。これ以上漕いだらおまえ振り落とされるぞ」
「そしたら慰謝料代わりに、『合コンの永久強制参加権』をミキちゃんに進呈してやるわっ」

そういって斗和が荷台に置いた足をがたがた揺らしだす。

「馬鹿ッあぶねぇだろ!暴れるなバカ!!」
「あはははー、ミキちゃん焦らせるのおもしれー」


そうやってふざけながら、自転車で夜の道を進んでいく。



髪を切ってもらって、その後使わせてもらった理容室の店内を斗和とおばさんと一緒に掃除した。全部が終わると、斗和が『送ってくよー』と言い出した。

俺が断ると、自転車を引っ張り出して来た斗和は、『行きは美樹が漕げよ』と言って強引に俺をサドルに座らせてきた。


5月の夜は、空気がすこしひんやりする。襟足が短くなった分、首にその空気がダイレクトに触れる。身が引き締まるようなこの冷たさが気持ちよかった。


「どーよ、こんだけ後ろとサイド短くしたら、風きもちーだろ」
「…………ああ」

感謝を込めて返事をすると、斗和が俺の頭をぼすぼす叩いて撫で回してきた。

「素直でよろしい。でさ、ミキちゃん、おまえ進学しないで就職するってマジなん?」
「……………おまえ。唐突すぎんだろ、その話」


いつかは聞かれることだと覚悟していたけど、いまはまだ触れないでいてほしいことでもあった。斗和は俺の背後で、

「まーまーいいじゃない。でどうなん?素直ついでに吐いちまえ」

と気安い調子で聞いてくる。

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