大人にはなれない

『秋元左官事務所』という看板が掛かったその家の前で自転車を停める。

ここは自宅兼事務所になっているので、事務所の方の入り口に回って呼び鈴を押した。ここを訪ねるのは久しぶりなので、少し緊張しながら待っていると足音を立てながら玄関扉が開かれた。

出てきた人は学生服姿の俺を見ると、驚いたように目を見開く。


「…………っん?…美樹ちゃん、だよな………?」
「はい、お久しぶりです」
「おお!美樹ちゃんかぁ、またでかくなったなぁ、おいっ!大した色男っぷりじゃねぇの」


そう言いながら荒っぽく俺の肩をばんばん叩いてくるこの人は、父さんの古い友人の秋元さんだ。この道60年の左官職人で、まだまだ現場に立つことがあるけれど、今は後継の職人さんたちの指導とか仕事の斡旋なんかもしているという。

ちなみに左官っていうのは家の壁の元になる材料を、鏝(コテ)で均一に塗って壁を作る職人さんのことで、地道な作業だからこそ強い忍耐力と、自分の手だけで作り上げていく高い技術力、そしてなにより勘と経験が必要になる仕事だという。


秋元さんの家には子供の頃父さんと一緒に何度か遊びに来たことがあって、その度に秋元さんは『将来うちで働かないか、美樹ちゃん』って言ってくれた。子供の俺でもさすがに社交辞令だと分かっていたけど、秋元さんはなんでか俺のことをすごく気に入ってくれていた。

父さんが逝ってしまったときも葬式に駆けつけてくれて『俺に出来ることならなんでも力になる』と言ってくれた。そのときの言葉を本気にしてもいいのか分からないけれど、とにかく一度話がしたいと思っていた。


「どうした、最近元気してるか?」
「はい。秋元さんも父さんの三回忌に、お線香ありがとうございました」

「はは、相変わらず出来た子だよ。俺ぁやっぱ美樹ちゃんみたいな孫か息子が欲しかったねぇ。でもなんだ、今日はこのじじいの将棋の相手でもしに来てくれたのかい?まあ、入れや」


秋元さんは古びた机の上に広げっぱなしになっている帳簿もそのままに、事務所を突っ切って自宅スペースの方へ入っていく。


「お邪魔します」
「おうよ。美樹ちゃんは正二仕込みでいい腕してっからな、一局指してけよ。最近ウチの若いのにも覚えさせてんだけど、今のヤツァダメだな、携帯ばっかいじりやがって将棋なんて興味も持たねえ。全然相手にならなくて退屈してんだよ。………おい、ばあさん、お茶っ!」

畳の部屋に対面で座布団を敷くと、秋元さんは押入れから自慢の足つきの将棋盤を出してくる。

「あら美樹ちゃんっ!?まあまあ、どうしたの」

襖が開いて、奥の部屋からおばさんが顔を覗かせる。おばさんも遊びに来るたびに俺にお菓子をたくさんくれて可愛がってくれた人だった。

「もうあなたってば来たのが美樹ちゃんなら早く言ってくださいよ。今お茶とお菓子持ってくるわね」

おばさんが行ってしまうと、秋元さんに急かされて早速将棋を指すことになった。


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