潮風の香りに、君を思い出せ。
明るい窓の外の景色をなんとなく眺めながら、暗くて寒い冬の夜のことを思い出していた。


確かお正月が明けた頃。冬の街に、コートに黒のリクルートスーツの女の人がいた。髪を後ろでまとめていて、前髪は目の上できれいにそろっている。こっちを見てるというか、にらんでいる。

「ナナミ」

低い声でそう呼ばれた。あれ、アサミさんかと思ったけど違うんだ。ナナって言わなかったし、声もアサミさんはもっと高いかな。最近会ってないからかどんな顔だったか曖昧だ。

髪も黒いし結んでるのもあって、普段の姿が想像できない。この人わかりにくい。

誰、学科の先輩? 三年生でナナミって呼ぶ人何人かいるけど?



なんとなく微笑んで、相手の出方を待つことにする。

「なにしてるの?」

低い声が刺すような厳しさで聞いてくる。まずい、怒ってる。笑ってやり過ごすのは無理そう。

「えーと、先輩とご飯を食べていて、今帰るところで」

「私、『今日は用事があるから』って断られたんだけど、あんたのこと?」

誰これ? やっぱりアサミさんぽいんだけど。でも、ナナミって呼んだ。怒ってるし間違えたらまずい。

「なにおどおどしてんの? ヒロと何してたわけ?」

「あの、ラケット新しくしようと思ってたら一緒に来てくれて、それでごはん食べてただけで」

「じゃあなんでそんなうろたえてんの。私に見つかる予定なかったんでしょ?
天然みたいな顔してるけど、それ全部フリだってわかってるから、いいかげんにしてよね。
ヒロにこれ以上ちょっかい出したら、許さないから」

それだけ勢いよく言い放つと、行ってしまった。アサミさんだ、あの口調、あの声。特徴のうすい美人顔。ヒロさんの彼女。

なんですぐにわからなかったんだろう。

どうしよう。




話はあっという間に広がった。三年女子を中心に『ナナやりすぎ』とか『彼氏いるくせに調子乗ってる』とか言われてるのが伝わってきて。

わざと覚えられないふりをしてると思っていた女子は意外と多いんだと、その時になってやっと気づいた。

誰がどこまでそう思ってるのかは、わからなかったけど。

怖くなった、とにかく。二度と間違えられないと思うと、自然とサークルから足が遠のくくらいには。




思い出しただけでも、気が沈む。こんなに明るい空の下でも。



アサミさん達に説明したって、信じるわけない。

街で突然声をかけられると、びくびくせざるを得ないなんてこと。

『それ全部フリだってわかってるから』

どんなに頑張ったって、信じてもらえないんだよ。
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