潮風の香りに、君を思い出せ。
香世子さんの用意してくれたごはんは若い男の人向けらしく、私はとても食べきれないほどだった。「大地が帰ってきたからつい張り切っちゃって、作りすぎたね」と、残しても笑って許してもらえる。
おいしかったし頑張って食べたんだけど、さすがに無理。
三人でご飯を食べ終わったダイニングテーブルで、香世子さんに入れてもらったコーヒーを飲んでいたら、大地さんの携帯が鳴った。あかりさんからのメッセージだと言う。
「あかりが、七海ちゃんの『顔がわからない』っていうのは相貌失認症ていうんじゃないかって。検索してみたらしいよ」
「ああ知ってる。ハリウッドのあの人もそれよ、何かで見た」
香世子さんが気軽に相槌を打つ。
「また適当だなぁ。誰だよ」
「ほらあの人。かっこよくて色々出てて。あー、でも名前が思い出せない。とにかくその俳優さんは人の顔が覚えられなくて困ってるって。七海ちゃんもそうなの?」
「はい。覚えられないというか、違いがなかなかわからないっていうか」
単に記憶力が悪いんだと思ってたけど、名前がつくような何かなの?
「ああ、これか。ブラッド・ピット」
スマホで検索したらしい大地さんが言う。意外にも大物だ。
「そう、ブラピ!顔は思い出せるのになぁ、名前ももうここまで出てたのに」
香世子さんは自分の喉を指差し主張している。
「七海ちゃんは逆? 名前を聞いても顔が思い出せないの?」
「うーん、そういうわけでもないんですけど」
「母さんの物忘れとは質が違うよ」
大地さんは顔も上げずに否定した。スマホをのぞいたまま、情報収集しているみたいだ。
「七海ちゃんも、見る?」
私の椅子の背に腕を回して、大地さんが画面を見せてくれる。肩を寄せ合うようにして小さな画面を覗き込んだ。
あれ、シオカゼの香りがする。さっきバスに乗ってた時はつけていないかと思ったのに。
「ちょっと町会の用事があるから行ってくるね」と香世子さんの声が聞こえて「いってらっしゃーい」と二人で言いながらも、画面から目を離さずいろいろ検索した。