グリーン・デイ
もちろん、京都の時のように明確な答えは返ってこない。でも、この木を見ていると、なぜか敬意を示さなければならないような気がしてならないのである。
おそらくだが、この木はきっと知っている。僕が知らない空白の数分間をずっとここで見ていたんだろうと思う。
あれは、僕がまだ中学の時だった。吹奏楽部に入っていた僕は、トロンボーンを吹くことに夢中で、クラシックを好み、それ故に友達と趣味が合わず、休み時間は楽譜を呼んでいるような少年だった。
吹奏楽部のパート練習でも、みんながUNOやトランプなんかをして浪費する中、一人黙々と練習に励んでいるような、いわば空気の読めない系の男子。
クラスという集団、吹奏楽部という集団、低音パートという集団。それはまるでパレードと同じだと思う。集団として見られるわけで、一人でも足並みを崩すと、そのパレード自体が崩れていく。
それが例え、練習中に遊んでいても、集団がそれならそれに従うしかない。パレードというものは、そういうもので、一人だけ真面目な奴がいても足並みが崩れることと変わらない。
僕のような人間は、当然の流れで孤立した。そして、その足並み崩す存在が、周りは排除しようと考えた。