いじめのある教室
五時間目の体育はマット運動だった。うちのクラスの体育は優しくて気のいい山村先生で、三十前半と思われるこの人は全然厳しくないし滅多に怒らないから体育の授業は人気がある。先生が厳しい数学や宿題がたっぷり出る英語に対して、体育は息抜きの五十分って感じ。今日も体育館にずらっとマットを並べて、みんな好きな者同士のグループごとにマットを選び、腕立て側転とか倒立前転を適度にサボりながら、練習している。
始まって十五分ぐらいして、トイレに行きたくなった。朝から分厚い雲が空を占領している寒い日で、体育館は冷凍庫みたい。寒さがお腹の底に染みて、耐えられなくなった。授業中にトイレに行くのはよくないことだけど、山村先生の時はトイレに行ってもいいですかって、申告さえすれば自由。体育館のトイレはホールを出てすぐ、玄関の左奥。個室から出て手を洗ってホールに戻ろうとすると、玄関の端っこで文乃が膝を抱えてた。
足音に気付いた文乃が顔を上げる。自然と目が合う。足が固まる。昼休みも教室で文乃と目が合ったこと、その直前あの話を聞かれてたかもしれないこと、またわたしはいじめられてる文乃に何もしなかったこと。文乃の前にいるとわたしは、後ろめたいことばっかりで動けなくなる。俯きながら、言葉を探す。
「寒くない?」
「大丈夫」
「中に、いなくていいの?」
見学者席は本来、ホールの端っこのマットが積み上げられているところ。たしか文乃もついさっきまで、マットの上に腰かけて足をぶらぶらさせていたはずだ。
「いいんじゃないの。山村先生、どうせ怒らないし」
文乃にしては珍しく、単語を繋げてたくさんしゃべった。久しぶりに聞いた文乃の声は昔よりだいぶ低くなって、子どもの声じゃなくなりかけていた。変声期って女の子にもあるらしい、気付きにくいだけで。
昔、文乃はもっとずっとおしゃべりだった。正確にはわたしの前でだけ、おしゃべりだった。あの頃からこの子の暗い雰囲気は固く人を寄せ付けなかったけど、それでも「きえちゃんきえちゃん」ってまとわりついてくる時だけは声のトーンが上がって、目だってちょっとイキイキして、ぐっと女の子らしくなってた。それが、嬉しかった。まるでわたしが文乃に魔法をかけて、この暗い少女を明るく女の子らしくしているようで。
でもわたしはもう文乃の魔法使いにはなれないらしく、こうして向き合ってても文乃の目はどんより暗いままだ。沈黙が重くて、つい舌が回る。
「あのハンカチ、ずっと持ってたんだね。物持ち、いいよねぇ」
文乃はしゃべらない。丸っこい耳はちゃんとわたしの言葉を拾ってるはずなのに、何も聞こえてないみたいに頬はぴくりともしない。黙ってる文乃の目に、今のわたしはどう映ってるんだろう。考えてしまいそうで考えたくなくて、舌がぺらぺら動いた。
「気にしないほうがいいよ、周防さんたちのこと。どうせみすぐ、飽きるんだし」
それだけ言って、文乃に背を向けた。逃げるようにホールに飛び込み、駆け足で郁子たちのところに戻る。俯いていたはずの文乃の視線を背中に感じた。
なんでわたしは、こうやってみんながいない時をみはからって、時々文乃に話しかけるんだろう。文乃に気を使おうとしてるんだろう。文乃がかわいそうだから? みんなに嫌われていじめられて、一人ぼっちの文乃がかわいそうだから?
ううん、かわいそうなのは自分じゃない? いじめを放置してる自分が、文乃に何もできない自分が情けなくてかわいそうで、こうやって罪悪感を減らしてるんじゃないの? 本当にかわいそうなのは文乃なのに……?
始まって十五分ぐらいして、トイレに行きたくなった。朝から分厚い雲が空を占領している寒い日で、体育館は冷凍庫みたい。寒さがお腹の底に染みて、耐えられなくなった。授業中にトイレに行くのはよくないことだけど、山村先生の時はトイレに行ってもいいですかって、申告さえすれば自由。体育館のトイレはホールを出てすぐ、玄関の左奥。個室から出て手を洗ってホールに戻ろうとすると、玄関の端っこで文乃が膝を抱えてた。
足音に気付いた文乃が顔を上げる。自然と目が合う。足が固まる。昼休みも教室で文乃と目が合ったこと、その直前あの話を聞かれてたかもしれないこと、またわたしはいじめられてる文乃に何もしなかったこと。文乃の前にいるとわたしは、後ろめたいことばっかりで動けなくなる。俯きながら、言葉を探す。
「寒くない?」
「大丈夫」
「中に、いなくていいの?」
見学者席は本来、ホールの端っこのマットが積み上げられているところ。たしか文乃もついさっきまで、マットの上に腰かけて足をぶらぶらさせていたはずだ。
「いいんじゃないの。山村先生、どうせ怒らないし」
文乃にしては珍しく、単語を繋げてたくさんしゃべった。久しぶりに聞いた文乃の声は昔よりだいぶ低くなって、子どもの声じゃなくなりかけていた。変声期って女の子にもあるらしい、気付きにくいだけで。
昔、文乃はもっとずっとおしゃべりだった。正確にはわたしの前でだけ、おしゃべりだった。あの頃からこの子の暗い雰囲気は固く人を寄せ付けなかったけど、それでも「きえちゃんきえちゃん」ってまとわりついてくる時だけは声のトーンが上がって、目だってちょっとイキイキして、ぐっと女の子らしくなってた。それが、嬉しかった。まるでわたしが文乃に魔法をかけて、この暗い少女を明るく女の子らしくしているようで。
でもわたしはもう文乃の魔法使いにはなれないらしく、こうして向き合ってても文乃の目はどんより暗いままだ。沈黙が重くて、つい舌が回る。
「あのハンカチ、ずっと持ってたんだね。物持ち、いいよねぇ」
文乃はしゃべらない。丸っこい耳はちゃんとわたしの言葉を拾ってるはずなのに、何も聞こえてないみたいに頬はぴくりともしない。黙ってる文乃の目に、今のわたしはどう映ってるんだろう。考えてしまいそうで考えたくなくて、舌がぺらぺら動いた。
「気にしないほうがいいよ、周防さんたちのこと。どうせみすぐ、飽きるんだし」
それだけ言って、文乃に背を向けた。逃げるようにホールに飛び込み、駆け足で郁子たちのところに戻る。俯いていたはずの文乃の視線を背中に感じた。
なんでわたしは、こうやってみんながいない時をみはからって、時々文乃に話しかけるんだろう。文乃に気を使おうとしてるんだろう。文乃がかわいそうだから? みんなに嫌われていじめられて、一人ぼっちの文乃がかわいそうだから?
ううん、かわいそうなのは自分じゃない? いじめを放置してる自分が、文乃に何もできない自分が情けなくてかわいそうで、こうやって罪悪感を減らしてるんじゃないの? 本当にかわいそうなのは文乃なのに……?