いじめのある教室
そんな文乃を想像しただけで恍惚としてしまう。イメージの力で頭の裏に火花が生まれる。文乃の泣き顔を思い浮かべて歩いてたあたしはいつのまにか一人で笑ってたらしく、すれ違った四十過ぎぐらいのおじさんが気味悪そうにこっちを見ていた。道路の脇に停められた車のミラーで自分の顔を確認すると、緩みきってトロンとした笑顔が映ってる。急に恥ずかしくなって慌てて顔を引き締めてから、再び足を動かす。

 冷凍庫から吹いてくるようなひんやりした風が折って短くしてるスカートを持ち上げ、太ももにざあっと鳥肌が立つ。冬はもう、近い。日はだいぶ短くなって辺りは紺色の闇にすっぽり包まれている。こんな寒い夕方に一人で歩いてると胸の中に隙間風が吹く気がする。みんなに囲まれてる時は無敵のあたしは、一人ぼっちになると急に弱くなるらしい。

 とぼとぼ足を動かしていると、やがてライトで照らされた「周防食堂」の看板が近づいてくる。何年も前から「防」のこざとへんと「食」の左側半分が消えかけてるのに、直しもしないボロ看板だ。

食堂の娘なんてダサくて恥ずかしいから中学に上がってからの友だちには誰にも言ってないけど、うちは両親二人で二十年以上もやってる食堂だ。

ここらへんは他の地域の人に言わせればあんまり「ガラの良くない」界隈で、みずぼらしい公団住宅や大正時代から建っていそうな古いアパートがひしめいてる。住んでいるのは工事現場とかで働いてるアル中予備軍のおじさんや、駅前の繁華街に勤める水商売のおばさんとその子どもとかで、酔っ払いのケンカや万引きやらが絶えずパトカーの出現率がやたら高い。

 夕方のこの時間帯は、その「ガラの良くない」人たちが多く夕食を取るためにうちの食堂を訪れるから、店内は一日のうちで一番の賑わいを見せる。小学校の頃、鞠子はうちのお客さんたちを目の前に「なんか怖そう」とビクビクしていたけれど、話してみれば意外にいい人ばっかりだからあたしは慣れている。堂々と正面から引き戸を開けた。お客さんでいっぱいの室内の熱気と、食べ物たちの放つ匂いが混ざり合ったむんわりした空気。

「おぅ、エリサちゃん久しぶりだねぇ。なんだよもう、すっかりキレイになっちゃって。おじさん、高校生かと思っちゃった」
「高校生なんて。あたし、そんなオバサンじゃないですー。まだ中二ですよぉ」

 眉尻を下げた常連のおじさんがさっそく話しかけてきて、同じく常連のおばさん(駅前にあるスナックのママでいつもニューハーフみたいな濃い化粧をしている、てかひょっとしてニューハーフかも)が、ちょっとぉ高校生がオバサンならあたしはなんなのよ、と肘で小突いてくる。

常連のお客さんたちとは挨拶とそのちょっと延長線上の会話しかしないのに、学校で明菜たちといる時よりずっと肩の力を抜いて話せる。みんなの前ではちゃんとしなきゃ、この子たちに憧れられる周防エリサでいなきゃって気負いがあるけれど、お客さんたちにはないから。この人たちになら鞠子にも言えない栄嗣のことを打ち明けてもいいと思うけれど、もちろんそんなことはしない。
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