ポプリ
 鳥肌が立つ。

 兄の奏でる音の煌きに翻弄される。

 けれど。

 ああ、けれど。

 なにか、足りない。

 手を伸ばしても届かない。掬い上げても指の隙間から零れ落ちていく。どんどん、どんどん、音の粒が弾けて、バラバラになって。

 怒りの咆哮が聞こえたと思ったら。

 バアアアアーン、と両手が鍵盤に叩き付けられた。

 ボクは心臓を跳ね上げて、兄を見る。

 唇を引き結び目尻を引き上げる兄の顔は、今まで見たこともない、鬼のような形相をしていた。


 ……兄も、分かっているのだ。

 音が零れ落ちていくのが。繋がっていかないのが。

 素晴らしい超絶技巧なのに。鍵盤の上では見事に楽譜の音階は再現されているのに。……どうしても、足りない。

 音が伸びないのだ。

 ペダルが踏めないから。

 上級者ほどこのペダルを巧みに使い、音に厚みを持たせる。ペダルを踏まなければ音がパラパラと散ってしまい、滑らかな表現が出来なくなってしまうのだ。

 だからペダルが踏めないとどうしても音が綺麗に響かない。流れて行かない。楽譜を忠実に再現出来ない。


 電子ピアノだったら、もう少し音が響く。誤魔化しがきく。

 けれども兄ほどの技量の持ち主が、誤魔化して満足することなど有り得ない。

 ……何故、分かるんだって?

 だって、ボクだったらきっと、そうだから。


 だから兄は、ピアニストを諦めたんだ。


 声をかけられずに佇むボクの目の前で、兄は親の仇でも見るように、自分の足を睨み付けていた。



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