ポプリ
 兄の知らなかった一面を見てしまった日からしばらく、ボクはヴァイオリンを弾くのが怖くなってしまった。

 何も知らなかったボクは、兄の前で楽しそうにヴァイオリンを弾いていた。

 上手になったでしょうと、得意げに。

 穏やかに微笑んで褒めてくれる兄に、調子に乗って、彼の気持ちも知らないで、いい気になって、見せつけて。

 どんな気持ちで、兄はいたんだろう。

 捨てなければならなかった夢を叶えようとしている存在が目の前にいて。音楽を忘れようとしても、“天才”と言われる音楽家を幾人も輩出してきたこの家では出来るはずもなく。

 穏やかな笑みの中に、一体、どれほどのものを押し隠していたのか。


「……奏楽、弾かないのかい?」

 リビングの窓際で、手にしたヴァイオリンに視線を落としていたボクに、兄が語り掛けてきた。

 家の中で仕事をしている兄は、家族と一緒にいる時でさえ、いつもきちんとしたスーツ姿だ。

 ボクは、きちんとした兄しか知らない。いつも兄は完璧で、取り乱したところなど見たこともない。……そう見せることがどんなに大変なことか、ボクは知らなかった。

「うん」

 何でもない風を装って秀麗な笑みを浮かべることの、なんと難しいことか。

 難しい。

 ボクには出来ないから、背中を向ける。

「そうか。今日は華やかなものが聴きたい気分だったんだけれど……」

 兄は車椅子の軽い電子音を響かせながらボクの隣へやってきた。

「最近、あまり弾いてくれないね」

「うん」

「気分じゃないのかな」

「……うん」

「なら仕方ないな」

 そっと手を伸ばして、ボクの頭を撫でてくれる。そんな兄に、ボクは。きちんと、笑えているだろうか……。


< 416 / 422 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop