毛づくろう猫の道しるべ
 後ろで妻と娘も貰い泣きしてるから、こっちも困惑して、何も言えなくなった。

 俺を充分見つめた後、満足して出て行って、結局なんの話もしなかった。

 その男性を見たのはそれが最初で最後だった。


 そして後からそれが俺の父親だと聞かされて、俺はびっくりしたんだ。

 その人には妻子がいたし、見るからに不倫しそうな人でもなかった。

 あんな真面目そうな男性が母の相手で俺の父親?

 全然実感がわかなかったけど、母が心底惚れた人だと俺に言うから、余計にこんがらがった。


 実際母は、ずっと俺の父親の事は黙っているつもりだったけど、その父親の余命が数ヶ月という事を知って、俺と会うことを許可したらしい。

 その人が病に侵されて死にかけていたこともショックだった。

 便宜上、父と表現するけど、その父と母は一度も愛し合ったことがなくて、俺は授かったんだ。


 どういうことかって?

 普通はそう思うよな。

 これって、キリストの誕生と同じだもんな。


 これも、一般的には考えられない話なんだけど、早い話が父の精子だけを母が手に入れて、人工授精したってことだった。

 それを聞いた時、人口受精? はっ? だったけど

 母は大切な思い出のように俺に話したんだ。


 まだ母が高校生だったころ、結構派手な風貌で、粋がってるような男としょっちゅうたむろしてたらしく、いわゆるバカ女だったらしい。

 これは自分で言ってたんだぜ。

 でも、母はそういうノリが好きなだけで、誰とでもヤルような女じゃなかった。

 えっ、表現が露骨って? 

 とにかく、誤解を招いても仕方がないってところはあったから、男は下心持って近づいたりしていたらしい。

 そんなとき、無理にホテルに連れて行かれそうになったんだ。

 そこに大学生の父が偶然通りかかって、助けたらしい。

 あまり強そうな人じゃなかったから、何発か殴られてたらしいけど、決して逃げなかった。

 一生懸命母を助けようと必死だった。

 くそ真面目で愚直な男だったって、母は笑いながら言ってた。

 でもその姿がとても立派ですごくかっこよく見えたらしい。

 ボコボコに殴られても諦めないで助けてくれたんだとか。

 最後は持久戦で相手が疲れたことで勝ったらしい。

 鼻血を流しながらも笑って、母に気をつけなさいっておっさんぽく説教じみて、最後に金を渡そうとしたんだ。

 母が頭に疑問符乗せていると、援助交際は二度としないで欲しいから、お金に困ってるならこれを使って欲しいって、三万円渡したんだ。

 勝手に誤解してたらしい。


 どこか不器用な人だと思うと、母性本能がキュンと反応して恋に落ちたんだ。

 お金は断っても、強く差し出すから最終的に受け取ってしまったらしい。

 母は名前と電話番号を聞いたけど、お礼はいいからということでそのまま去って行った。

 そこで母は尾行したんだけど、なぜか父は泣いてたそうだ。

 あまりにも腑に落ちなくて、声を掛けて、近くの公園でベンチに座りながら話を聞いたら、どうやら実家で飼ってた猫が死んだらしく、それが悲しかったんだって。

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