嘘は世界を軽くする
3章 月森寛人
いままでの十六年間、一回も上り下りしたことがなかったというのに、この二日間で二往復目の千本鳥居だ。
手に持ったお茶をたぷんたぷん言わせながら、僕はゆっくりと参道を下りる。
背後からは、コツン、コツン、畳んだ日傘を杖代わりに、ひどくゆっくりとした歩みが聞こえてくる。
音の主は藤川唯。昨日出会ったばかりの、東京から来た女の子。そして、二年で死ぬ、という、僕のあのバカみたいな嘘を真に受けた女の子。
――だから、彼女は僕に構うんだろうか。
そのゆっくりとした音に合わせて、ゆっくりと石段を下りながら、僕は考えた。
彼女は、僕が不治の病かなんかで、本当に二年で死ぬと思ってる? だから、今日も境内で見かけた僕に声をかけてきたのだろうか。ご丁寧に、神社の案内までしてくれて。
カッコをつけるために手を突っ込んだポケットに、小銭の感触を確かめながら小さくため息をつく。
稲荷神社、という名称はもちろん知っていたけれど、お揚げを供える習慣があるなんて知らなかった。
ってか、紙に包まれたあのお供え物のお揚げ。中身を見たら本当にお揚げだったから、スーパーかどっかで買ってきたのを、わざわざ紙に包むんだろう。それにろうそくとマッチをつけて百五十円。神社ってのは、神さまがいるわりに、本当に阿漕な商売をしている。
もちろん、金を払う人がいなければ、商売は成り立たないのだが、そういうバカな人間が、いま、僕の後ろにいるのだから、あまり大きな声では言えない。
あげく、そのバカは迷惑なことに、僕の分までそんなものを買ってくれた。でも、僕は結局そのまま甘えることもできず、貴重な二百円を払うはめになってしまったというわけだ。
……そう考えると、一番の大バカは、またお守りをまた買い損ねた僕かもしれない。
そう、昨日、ペットボトルを二本買ったために従姉妹へのお守りを買い損ねた僕は、散々母さんに嫌味を言われていた。お歳暮なんか、何日か遅れたって構わないようなもんだけど、母さんはそれがどうしても許せなかったらしい。
『明日、絶対買うてきんさい! お金? あんたの小遣いから出しや!』
言われてみれば、もっともである。
その上、僕は朝寝坊をしたせいで、朝一番には買いに行けず、結局昨日と同じ、炎天下の中を必死で自転車を漕いできた。この参道もヒイヒイ言いながら上がったというのに、なまじ値段を知っていたため、ぎりぎりの額しか持ってこなかったことが今回の敗因だったらしい。
いや、それよりも、まさか昨日の女の子がお揚げを買おうと言い出すなんて、誰が予想できただろうか。八百円しか手持ちのなかった僕を責めるのはお門違いだ。
僅かに吹く風を頬に受けて、僕はしばしその場に佇む。
たかが、百五十円。されど百五十円。
あんなものに金を払うくらいなら、せめて持って帰って味噌汁にでもしてもらえばよかった。まあ、でもあんな炎天下に何時間も放置されたものを食ったら腹を壊すか。
ぼうっとしていると、彼女の音がすぐ後ろまで近づいてくる。僕も大概ゆっくりだが、その僕が立ち止まっても追いつかないとか、どれだけ歩くのが遅いんだろう。
僕は、ちらり、振り返ろうとする。と、その瞬間、「あっ」と彼女が叫んだ。
「え? なに?」
驚いた僕が思わず動きを止めると、「あ、そうじゃなくて」、はにかむような声で彼女が言った。
「あ、ほら、この参道が黄泉の道みたいだって、さっき……それで……」
困ったように言い淀む。
「……だから、振り向くなってこと?」
「えっと、まあ……」
問いを肯定するような雰囲気。
わけがわからない。
僕がどうしたものかと口を閉ざしていると、
「いえ、別にそういうわけじゃ……あっ、て思っちゃっただけで、別に全然、振り向いてもらっても、全然……」
フォローをするように言われるが、そう言われて、はいそうですかと振り返るのもおかしな話だ。
「別に、僕はどうでも……」
振り向くのをやめて、僕は再び先を歩く。それ以上は何もいわずに、彼女も後をついてくる。いや、別に僕の後をついてくるわけじゃなくて、これは一本道だからそうせざるを得ないだけなんだけど……。
奇妙な沈黙を保ちながら、僕は彼女に会わせてゆっくりと石段を下りた。もう半分ほど下りただろうか。しかし、「振り向くな」、そう言われる前までは、普通に先をいけたのに、いまはなんだか背中がむずがゆい。コツン、コツン、その音が本当に彼女のものなのか、振り返って確かめたくなってしまう。
イザナミとイザナギ、死の国に囚われた女とその夫、か。僕は彼女との会話を思い返した。
よく似たその物語の中で、死んでしまうのは両方とも女のほうだ。男は死んだ女に追いすがり、取り戻そうとするが、その試みは失敗する。日本とギリシャ、遠く離れた国の物語が同じなのはなぜだろう。ほかにもこんな物語が、どこかにあったりするのだろうか。
つれづれに考えていると、彼女の音が遠のいていた。僕は一度立ち止まり、振り向かずに彼女を待つ。曲がりくねりながら続く石段を眺めていると、彼女の言葉もわかる気がした。
この朱色に満ちた参道は、現世と黄泉を繋ぐ一本道だ。イザナギとイザナミが通り抜けた古代の道だ。そう考えるなら、参道の登り口が黄泉国、上りきった先の本殿が光溢れる現世だろう。
その道を、僕と彼女は歩いている。ただし、物語と向きは逆だ。二年で死ぬと嘘の告白をした僕は、黄泉国に向かって歩いている。そして、それを現世に引き止めるかのように、彼女は話しかけてくれている。彼女のこの恐ろしくゆっくりとした速度も、もしかしたら、僕を黄泉に行かせないために、時間稼ぎをしているのかもしれない。
――僕が黄泉に行くというのは、まるきりの嘘だというのに。
今更ながら、僕は少しばかりの罪悪感を感じた。
高校卒業の朝に死んでやろう、そう思いついた昨日の僕は最高だった。特別な才能なしには人生はつまらない、その意見にはいまでも同意見だ。けれど。
昨日までの鋭い厭世観が鈍っていくのを、僕はどこかで感じていた。それはなぜか。決まっている、彼女のせいだ。藤川唯という、突然目の前に現れた女の子のせいだ。
別に、僕は少し女子に話しかけられたからって、舞い上がるようなバカじゃない。ましてや、会っただけで好きになってしまっただなんてことはあり得ない。
大体、彼女が僕を気にするのは、あの嘘のせいだ。母性本能だか何だか知らないが、可哀想な僕を助ける優しい私、に酔っているのだろう。
きっとそうに違いない、自分の考えに、僕は納得した。
彼女は、毎日この神社にお参りに来ていると言った。これは、「人と違ったことをしている個性的な私」というアピールだろう。ゲームのキャラクターで言えば、「ツインテールの元気っ子」とか「幼女なのに大人びている」というキャラ付けだ。
彼女の場合は、そのキャラ付けが「毎日神社に通ってる」という、何とも微妙なものなのだろう。もちろん、なぜそんなキャラで行こうと思ったのかは、僕の知る所じゃないが。
そしてそこに――それこそ彼女には都合のいいことに――僕が現れた。「大人になるまで生きたい」という短冊を持った、不治の病「設定」の僕である。
それを見て、彼女はピンときただろう。「この人は、私の付加価値になる」、きっとそう思ったはずだ。そして、僕に話しかけた。僕のお供え物まで買い、できるだけ関わろうとした。
思えば、彼女はたった五十円の釣りを返すため、家まで教えてくれと言い出したのは、そのせいだろう。すべては「不治の病」の僕に関わり、やがて僕が死んだときに脚光を浴びるためだ。彼は私の友達でした、なんて涙を流すために――
そんな僕の考えは、ようやく鳥居が途切れ、石段の終わりが見えた頃に補強された。
「そういえば、あの短冊ですけど……」
それまで黙っていた彼女は、そのとき思い出したように口を開いたのだ。そして、ようやく参道を抜けた僕の隣で微笑んだ。
「あのあと、ちゃんと吊しておきましたから。日熊さんに頼んで、竹のてっぺんに。あ、でも誰のかは言ってません、ちゃんと、落ちてたって……」
その笑みを見て、僕は確信した。
この子は同じ穴の狢だ。だから、どんな嘘をついても構わないだろう。お互いがお互いを利用してるんだから。
「……ありがとう」
共犯者の笑みで僕は返すと、止めて置いた自転車にまたがった。
また、明日も彼女はここへ来る。確信があるからこそ、僕は後ろを振り向かずに自転車を走らせた。
手に持ったお茶をたぷんたぷん言わせながら、僕はゆっくりと参道を下りる。
背後からは、コツン、コツン、畳んだ日傘を杖代わりに、ひどくゆっくりとした歩みが聞こえてくる。
音の主は藤川唯。昨日出会ったばかりの、東京から来た女の子。そして、二年で死ぬ、という、僕のあのバカみたいな嘘を真に受けた女の子。
――だから、彼女は僕に構うんだろうか。
そのゆっくりとした音に合わせて、ゆっくりと石段を下りながら、僕は考えた。
彼女は、僕が不治の病かなんかで、本当に二年で死ぬと思ってる? だから、今日も境内で見かけた僕に声をかけてきたのだろうか。ご丁寧に、神社の案内までしてくれて。
カッコをつけるために手を突っ込んだポケットに、小銭の感触を確かめながら小さくため息をつく。
稲荷神社、という名称はもちろん知っていたけれど、お揚げを供える習慣があるなんて知らなかった。
ってか、紙に包まれたあのお供え物のお揚げ。中身を見たら本当にお揚げだったから、スーパーかどっかで買ってきたのを、わざわざ紙に包むんだろう。それにろうそくとマッチをつけて百五十円。神社ってのは、神さまがいるわりに、本当に阿漕な商売をしている。
もちろん、金を払う人がいなければ、商売は成り立たないのだが、そういうバカな人間が、いま、僕の後ろにいるのだから、あまり大きな声では言えない。
あげく、そのバカは迷惑なことに、僕の分までそんなものを買ってくれた。でも、僕は結局そのまま甘えることもできず、貴重な二百円を払うはめになってしまったというわけだ。
……そう考えると、一番の大バカは、またお守りをまた買い損ねた僕かもしれない。
そう、昨日、ペットボトルを二本買ったために従姉妹へのお守りを買い損ねた僕は、散々母さんに嫌味を言われていた。お歳暮なんか、何日か遅れたって構わないようなもんだけど、母さんはそれがどうしても許せなかったらしい。
『明日、絶対買うてきんさい! お金? あんたの小遣いから出しや!』
言われてみれば、もっともである。
その上、僕は朝寝坊をしたせいで、朝一番には買いに行けず、結局昨日と同じ、炎天下の中を必死で自転車を漕いできた。この参道もヒイヒイ言いながら上がったというのに、なまじ値段を知っていたため、ぎりぎりの額しか持ってこなかったことが今回の敗因だったらしい。
いや、それよりも、まさか昨日の女の子がお揚げを買おうと言い出すなんて、誰が予想できただろうか。八百円しか手持ちのなかった僕を責めるのはお門違いだ。
僅かに吹く風を頬に受けて、僕はしばしその場に佇む。
たかが、百五十円。されど百五十円。
あんなものに金を払うくらいなら、せめて持って帰って味噌汁にでもしてもらえばよかった。まあ、でもあんな炎天下に何時間も放置されたものを食ったら腹を壊すか。
ぼうっとしていると、彼女の音がすぐ後ろまで近づいてくる。僕も大概ゆっくりだが、その僕が立ち止まっても追いつかないとか、どれだけ歩くのが遅いんだろう。
僕は、ちらり、振り返ろうとする。と、その瞬間、「あっ」と彼女が叫んだ。
「え? なに?」
驚いた僕が思わず動きを止めると、「あ、そうじゃなくて」、はにかむような声で彼女が言った。
「あ、ほら、この参道が黄泉の道みたいだって、さっき……それで……」
困ったように言い淀む。
「……だから、振り向くなってこと?」
「えっと、まあ……」
問いを肯定するような雰囲気。
わけがわからない。
僕がどうしたものかと口を閉ざしていると、
「いえ、別にそういうわけじゃ……あっ、て思っちゃっただけで、別に全然、振り向いてもらっても、全然……」
フォローをするように言われるが、そう言われて、はいそうですかと振り返るのもおかしな話だ。
「別に、僕はどうでも……」
振り向くのをやめて、僕は再び先を歩く。それ以上は何もいわずに、彼女も後をついてくる。いや、別に僕の後をついてくるわけじゃなくて、これは一本道だからそうせざるを得ないだけなんだけど……。
奇妙な沈黙を保ちながら、僕は彼女に会わせてゆっくりと石段を下りた。もう半分ほど下りただろうか。しかし、「振り向くな」、そう言われる前までは、普通に先をいけたのに、いまはなんだか背中がむずがゆい。コツン、コツン、その音が本当に彼女のものなのか、振り返って確かめたくなってしまう。
イザナミとイザナギ、死の国に囚われた女とその夫、か。僕は彼女との会話を思い返した。
よく似たその物語の中で、死んでしまうのは両方とも女のほうだ。男は死んだ女に追いすがり、取り戻そうとするが、その試みは失敗する。日本とギリシャ、遠く離れた国の物語が同じなのはなぜだろう。ほかにもこんな物語が、どこかにあったりするのだろうか。
つれづれに考えていると、彼女の音が遠のいていた。僕は一度立ち止まり、振り向かずに彼女を待つ。曲がりくねりながら続く石段を眺めていると、彼女の言葉もわかる気がした。
この朱色に満ちた参道は、現世と黄泉を繋ぐ一本道だ。イザナギとイザナミが通り抜けた古代の道だ。そう考えるなら、参道の登り口が黄泉国、上りきった先の本殿が光溢れる現世だろう。
その道を、僕と彼女は歩いている。ただし、物語と向きは逆だ。二年で死ぬと嘘の告白をした僕は、黄泉国に向かって歩いている。そして、それを現世に引き止めるかのように、彼女は話しかけてくれている。彼女のこの恐ろしくゆっくりとした速度も、もしかしたら、僕を黄泉に行かせないために、時間稼ぎをしているのかもしれない。
――僕が黄泉に行くというのは、まるきりの嘘だというのに。
今更ながら、僕は少しばかりの罪悪感を感じた。
高校卒業の朝に死んでやろう、そう思いついた昨日の僕は最高だった。特別な才能なしには人生はつまらない、その意見にはいまでも同意見だ。けれど。
昨日までの鋭い厭世観が鈍っていくのを、僕はどこかで感じていた。それはなぜか。決まっている、彼女のせいだ。藤川唯という、突然目の前に現れた女の子のせいだ。
別に、僕は少し女子に話しかけられたからって、舞い上がるようなバカじゃない。ましてや、会っただけで好きになってしまっただなんてことはあり得ない。
大体、彼女が僕を気にするのは、あの嘘のせいだ。母性本能だか何だか知らないが、可哀想な僕を助ける優しい私、に酔っているのだろう。
きっとそうに違いない、自分の考えに、僕は納得した。
彼女は、毎日この神社にお参りに来ていると言った。これは、「人と違ったことをしている個性的な私」というアピールだろう。ゲームのキャラクターで言えば、「ツインテールの元気っ子」とか「幼女なのに大人びている」というキャラ付けだ。
彼女の場合は、そのキャラ付けが「毎日神社に通ってる」という、何とも微妙なものなのだろう。もちろん、なぜそんなキャラで行こうと思ったのかは、僕の知る所じゃないが。
そしてそこに――それこそ彼女には都合のいいことに――僕が現れた。「大人になるまで生きたい」という短冊を持った、不治の病「設定」の僕である。
それを見て、彼女はピンときただろう。「この人は、私の付加価値になる」、きっとそう思ったはずだ。そして、僕に話しかけた。僕のお供え物まで買い、できるだけ関わろうとした。
思えば、彼女はたった五十円の釣りを返すため、家まで教えてくれと言い出したのは、そのせいだろう。すべては「不治の病」の僕に関わり、やがて僕が死んだときに脚光を浴びるためだ。彼は私の友達でした、なんて涙を流すために――
そんな僕の考えは、ようやく鳥居が途切れ、石段の終わりが見えた頃に補強された。
「そういえば、あの短冊ですけど……」
それまで黙っていた彼女は、そのとき思い出したように口を開いたのだ。そして、ようやく参道を抜けた僕の隣で微笑んだ。
「あのあと、ちゃんと吊しておきましたから。日熊さんに頼んで、竹のてっぺんに。あ、でも誰のかは言ってません、ちゃんと、落ちてたって……」
その笑みを見て、僕は確信した。
この子は同じ穴の狢だ。だから、どんな嘘をついても構わないだろう。お互いがお互いを利用してるんだから。
「……ありがとう」
共犯者の笑みで僕は返すと、止めて置いた自転車にまたがった。
また、明日も彼女はここへ来る。確信があるからこそ、僕は後ろを振り向かずに自転車を走らせた。