嘘は世界を軽くする
4章 藤川唯
益田行きの電車の窓を、夏の風景が流れていく。夏休みだというのに、意外と人は少ない。それとも田舎の電車は東京と違って、いつもこんなに空いているのだろうか。
三人掛けの座席に二人で座り、濃い緑を目に焼きつけるように外の風景を眺めていた。
日本には移ろう四季がある。春、夏、秋、冬、それぞれの季節に風景は全く違う表情を見せ、それゆえに過ぎた季節がどんなものだったか、すぐには思い出せなくなってしまう。
夏。
だからこそ、その季節の記憶を焼きつけるように、私は景色を眺めていた。
季節が変わり、秋になり、そして冬が来ても、この夏のことを思い出せるように。空の色や、山の色、べったりと肌に張りつくような蒸し暑さや、クーラーの効きすぎた車両の肌寒さ。半袖から伸びた腕の頼りなさや、まとめた髪の柔らかさまで。
私はそのすべてを覚えていたかった。二年も命が持たないと言った、隣に座る月森くんと共に。
「……もうすぐですね」
そんな貴重な時間を割いてくれた月森くんのためにも、私は努めて明るく言った。
「もうすぐです、益田駅ってところ」
「あ……うん、そうやね」
月森くんは我に返ったようにうなずいた。彼は一体何に思いを馳せていたのだろう。いや、きっと、彼ももう見ることのないかもしれないこの景色を、目に焼きつけていたに違いない。
『石見美術館ってところに行ってみたいんですけど……』
「振り返っちゃダメ」ゲームの勝者として、私は彼にそんなお願いをした。ダメで元々、それも断られても仕方がない勝ち方だったけど、どうしても月森くんとそこに行ってみたかった私は、一計を案じたのだ。
『その美術館には「島根の画家」のコーナーがあって、そこに「月森寛人」の作品もあるみたいだよ』
そう教えてくれたのは、佳菜子さんだった。私があんまりにもあの大きな絵に感動していたので、わざわざ調べてくれたのだ。
『一点だけみたいだけど……寡作なのね、きっと』
佳菜子さんの説明を聞いて、それはそうだろう、と私は納得を深めた。いくら才能があっても、月森くんは私と同い年だ。そんなにたくさんの作品を描き上げてはいないだろう。
でも、自分の作品が飾ってあるところに行くのなんて嫌かな、そう気を回してもみたけれど、月森くんは意外にもすんなりとOKを出してくれた。その結果、私たちはこうして電車に揺られているのだった。
目的地の石見美術館は、津和野から電車で四十分ほど、駅からバスで少しのところにある地元の美術館らしい。とはいっても、家のパソコンから見た外観は驚くほどお洒落で、その建物自体が芸術を表しているようだった。
『電車は冷えるし、美術館も寒いかもしれないから、カーディガンを持って行きなさい。あとスカートも長いのにして……』
行き先を告げると、過保護なお母さんは私を止めはしなかったものの、服装から持ち物まできっちりと指導が入った。
『いい? 汗をかいたらこまめに拭いて、水分補給を忘れないで。駅から徒歩十五分って書いてあるけど、こんな暑い中、歩いちゃダメよ。バスを使って。日が落ちないうちに帰ってくるのよ? それから――』
一緒に行く相手が、同い年の男の子だということは打ち明けてある。お母さんが言い淀んだのは、娘の初デートを心配する言葉だろう。けれど、そこは「友達だよ」という私を信じて、言葉を飲み込むことにしてくれたようだった。
『――楽しんでね』
お小言の代わりに、お母さんはそう言った。うん、私も何だか嬉しくなって、うなずいた。
月森くんが、私のことをどう思っているのかはわからない。
彼は時々、私を意地悪な目で見るし、呆れかえったようにため息をつくときもある。ぶっきらぼうに物を言ったかと思えば、日熊さんの熱いお茶を断れずに、嫌々口をつけてたりもする。かと思えば、自暴自棄気味に、余命を告白して、返す手のひらで私の頼みをあっさり聞いてくれたりもする。
不思議な人だ。自分の感情を上手く操ることができなくて、足掻いてみたりへこんでみたりしているみたい。だから、周りに意地悪な眼差しを向けたりもするんだろう。
それに、あの蒼い短冊。
あれは彼の書いたものではないことを、実は私は知っていた。それなのに、彼はそれを自分の書いたもののように振る舞った。
それは嘘――ではきっとない。だって、あのとき偶然居合わせただけの、知り合いでもない私にそんな嘘をつく必要はどこにもない。彼が余命幾ばくもないというのは、事実なんだろう。事実は小説より奇なり、とはこのことだ。
月森くんと、神狐像にお揚げをお供えしたとき、私は自分の願いを取り消して、彼のために祈った。そして、自分の気持ちに気づいた。
私は彼のあの大きな絵に惹かれたように、彼自身にも淡い恋心を抱くようになっていた。
彼はいつ、自分の命の短さに気づいたのだろうか。それはわからないが、きっとあの絵を描いたときには、もうその動かしようのない事実を知っていたはずだ。だから、あんな絵を描くことができたのだ。
モノクロに青一色が入った抽象画。
それは見る人によって、さまざまな意味を持った絵に見えるだろう。けれど、私はその絵の意味が、作者の込めた気持ちという、本当の意味でわかるような気がしていた。
そして、きっとそれは私にしかわからない、そんな気もしていた。月森くんと、その病を知る私にしかわからない、絵の意味。多くの人は、その意味を彼の死後に知るはずだ。短すぎる余命と向き合った人の、勇気と希望のようなものを。
益田駅で、私たちは駅を出ると、バスを探した。運良く、バスはすぐにやってきて、私たちはそれに乗り込む。そのとき、私はふと、乗り込む人の中に見覚えのある顔を見つけた。
「もう、お母さんたら……」
思わずつぶやく。
「え? 何か言うた?」
怪訝な顔をした月森くんが振り返る。
「あ、ううん、何でも……あの、楽しみですね」
焦って言うと、「そうやね」、彼はうなずいた。車窓に視線を戻す。私はそれを確認してから、そっと後ろを振り返る。
――やっぱり。
私たちの後から乗り込んできた一人の男性。それは、佳菜子さんの旦那さんの航平さんだった。きっと、お母さんがついていくように頼んだのだろう。
大丈夫だって言ったのに、小さなため息を私はついた。けれど、すぐに気分を持ち直した。お母さんが、私のことを思ってしてくれていることだ。航平さんにいたっては、璃奈ちゃんとの休日をなげうってまで来てくれているのだ。こんな私のわがままのために。
それなら、精一杯楽しまなきゃ、私はまだ見ぬ絵に思いを馳せた。
「……初めてや。ここに来るの」
すぐに見えてきたそのモダンな姿に、月森くんがつぶやいた。
「そうなんですか」
その隣で私は答えながら、胸は絵への期待と近すぎる月森くんとの距離でドキドキが止まらなかった。ほかにはどんな絵が飾ってあるんだろう。きっと素晴らしい絵に違いない。それを書いた本人と見られるなんて。
はやる気持ちを抑えて、バスを降りる。先に行く月森くんの後をついて歩く。日傘を差して歩く私は並んで歩くことが難しいし、それに何より歩くのが遅すぎる。
姿が見えないはずの私を気遣って、月森くんはゆっくりと歩いてくれた。あの「振り返っちゃダメ」ゲームは、参道だけの遊びのつもりだったのに、振り向くとまた「お願い」を聞かなければいけなくなると思っているのだろうか。彼は頑なに振り向こうとはしない。
「月森くん」
イタズラ心が芽生えた私は、彼の背中に呼びかけた。
「何?」
やっぱり彼は振り向かない。私は息を大きく吸い込むと、
「あっ、あんなところにUFOが!」
「……そがぁなことで振り向くと思ってる?」
辛辣に、月森くん。
「ネタが昭和やろ」
「ですよね……」
私は一旦納得するふりをして、
「あっ、あんなところに空飛ぶ円盤が!」
「……それ、同じやろ」
「あっ、あんなところに未確認飛行物体が!」
「……」
と、月森くんの足が止まった。さすがにからかいすぎただろうかと怯える私に、彼はふと道路脇の茂みを指した。
「いま、あそこにツチノコがおったで」
「えっ?」
ギョッとして指された方を見る。がしかし、そこには何もいない。
「月森くん、もしかして……」
はっとする私に、
「いま、引っかかったやろ」
笑いを含んだ月森くんの声。やられた、私は一瞬頭を抱えるが、すぐに起死回生の一言を思いついた。
「あっ、でも、私が引っかかったことを知ってるってことは、月森くんもこっちを振り返ったってことじゃ……」
「そんなの反応でわかるやろ」
「……そうですね」
あっけなく白旗を揚げた私に、月森くんが笑った。いつもの皮肉な笑いではない、楽しそうな笑い声だ。
あれ? こんなふうに彼が笑うのってすごく珍しいんじゃないだろうか。どんな顔をして笑ってるんだろう、その表情を見てみたいと思ったが、彼はさっさと美術館の中へ入っていってしまう。
涼しい。
私はほっと息をついた。美術館独特の厳かな雰囲気に、はしゃいでいた気持ちがすうっと静まる。
「……学生さん、お二人ですか?」
私たちに気づいた受付のお姉さんが、穏やかに尋ねた。「はい」、月森くんが答え、
「あ、これ、私の分……」
私は三百円を差し出す。
すると、お姉さんが私たちを交互に見比べ、にこりと微笑んだ。彼氏と彼女のように見えたのだろうか、そんな想像をして、ひとりでに顔が赤くなる。
「展示室はあちらでございます。ごゆっくりどうぞ」
お姉さんの声に送られて、私たちは静かに張り詰めたような空間を歩いた。
「……よく来るん? こういうとこ」
静けさに合わせるように、月森くんが低い声で言った。
「えっと、実は……初めてで」
どう説明したものかと言い淀む。
「でも、どうしても見たい絵があって」
「ここに?」
怪訝そうな月森くん。
自分の作品が飾られているのだ。ここまで来たら気づいても良さそうなものなのに、何の変化も見られない彼に、私は少し違和感を抱く。それとも、作品がどこに飾られているのか、画家はあまり気にしないんだろうか。
「へえ、そんなすごいとこなんや」
「うん、すごい……みたいです」
変な空気を感じながらも、案内図を見つけた私は、お目当てのコーナーを探した。
「地元の画家」は「展示室A」。早く月森くんの絵が見たい、その一心で展示室Aを探す。
「あっちですね」
無意識に、胸の鼓動が速くなる。そのせいで、心臓が痛い。落ち着いて、落ち着いて、そう言い聞かせながら、私は展示室に足を踏み入れる。
心の準備はまだ全然できていなかった。だというのに、その絵は入り口の真正面に飾られていた。作者の名前を確認しなくとも、それが私の求めていた絵だということが、すぐにわかった。
「これ……」
私はつぶやいて、立ち尽くした。
綺麗、美しい、幻想的、耽美……目から神経へ伝わったその絵を、脳みそが言葉に変換していく。けど、その組み立てられた言葉たちを全部捨てるように、私は一度首を振った。それから、もう一度、今度はそれが言葉にならないように、絵のすべてを受け入れるように瞳に映す。
それは案外大変なことだった。けれど、そうして見れば見るほど、その絵は私と一体化して、体の隅々まで入り込んでいくようだった。
三人掛けの座席に二人で座り、濃い緑を目に焼きつけるように外の風景を眺めていた。
日本には移ろう四季がある。春、夏、秋、冬、それぞれの季節に風景は全く違う表情を見せ、それゆえに過ぎた季節がどんなものだったか、すぐには思い出せなくなってしまう。
夏。
だからこそ、その季節の記憶を焼きつけるように、私は景色を眺めていた。
季節が変わり、秋になり、そして冬が来ても、この夏のことを思い出せるように。空の色や、山の色、べったりと肌に張りつくような蒸し暑さや、クーラーの効きすぎた車両の肌寒さ。半袖から伸びた腕の頼りなさや、まとめた髪の柔らかさまで。
私はそのすべてを覚えていたかった。二年も命が持たないと言った、隣に座る月森くんと共に。
「……もうすぐですね」
そんな貴重な時間を割いてくれた月森くんのためにも、私は努めて明るく言った。
「もうすぐです、益田駅ってところ」
「あ……うん、そうやね」
月森くんは我に返ったようにうなずいた。彼は一体何に思いを馳せていたのだろう。いや、きっと、彼ももう見ることのないかもしれないこの景色を、目に焼きつけていたに違いない。
『石見美術館ってところに行ってみたいんですけど……』
「振り返っちゃダメ」ゲームの勝者として、私は彼にそんなお願いをした。ダメで元々、それも断られても仕方がない勝ち方だったけど、どうしても月森くんとそこに行ってみたかった私は、一計を案じたのだ。
『その美術館には「島根の画家」のコーナーがあって、そこに「月森寛人」の作品もあるみたいだよ』
そう教えてくれたのは、佳菜子さんだった。私があんまりにもあの大きな絵に感動していたので、わざわざ調べてくれたのだ。
『一点だけみたいだけど……寡作なのね、きっと』
佳菜子さんの説明を聞いて、それはそうだろう、と私は納得を深めた。いくら才能があっても、月森くんは私と同い年だ。そんなにたくさんの作品を描き上げてはいないだろう。
でも、自分の作品が飾ってあるところに行くのなんて嫌かな、そう気を回してもみたけれど、月森くんは意外にもすんなりとOKを出してくれた。その結果、私たちはこうして電車に揺られているのだった。
目的地の石見美術館は、津和野から電車で四十分ほど、駅からバスで少しのところにある地元の美術館らしい。とはいっても、家のパソコンから見た外観は驚くほどお洒落で、その建物自体が芸術を表しているようだった。
『電車は冷えるし、美術館も寒いかもしれないから、カーディガンを持って行きなさい。あとスカートも長いのにして……』
行き先を告げると、過保護なお母さんは私を止めはしなかったものの、服装から持ち物まできっちりと指導が入った。
『いい? 汗をかいたらこまめに拭いて、水分補給を忘れないで。駅から徒歩十五分って書いてあるけど、こんな暑い中、歩いちゃダメよ。バスを使って。日が落ちないうちに帰ってくるのよ? それから――』
一緒に行く相手が、同い年の男の子だということは打ち明けてある。お母さんが言い淀んだのは、娘の初デートを心配する言葉だろう。けれど、そこは「友達だよ」という私を信じて、言葉を飲み込むことにしてくれたようだった。
『――楽しんでね』
お小言の代わりに、お母さんはそう言った。うん、私も何だか嬉しくなって、うなずいた。
月森くんが、私のことをどう思っているのかはわからない。
彼は時々、私を意地悪な目で見るし、呆れかえったようにため息をつくときもある。ぶっきらぼうに物を言ったかと思えば、日熊さんの熱いお茶を断れずに、嫌々口をつけてたりもする。かと思えば、自暴自棄気味に、余命を告白して、返す手のひらで私の頼みをあっさり聞いてくれたりもする。
不思議な人だ。自分の感情を上手く操ることができなくて、足掻いてみたりへこんでみたりしているみたい。だから、周りに意地悪な眼差しを向けたりもするんだろう。
それに、あの蒼い短冊。
あれは彼の書いたものではないことを、実は私は知っていた。それなのに、彼はそれを自分の書いたもののように振る舞った。
それは嘘――ではきっとない。だって、あのとき偶然居合わせただけの、知り合いでもない私にそんな嘘をつく必要はどこにもない。彼が余命幾ばくもないというのは、事実なんだろう。事実は小説より奇なり、とはこのことだ。
月森くんと、神狐像にお揚げをお供えしたとき、私は自分の願いを取り消して、彼のために祈った。そして、自分の気持ちに気づいた。
私は彼のあの大きな絵に惹かれたように、彼自身にも淡い恋心を抱くようになっていた。
彼はいつ、自分の命の短さに気づいたのだろうか。それはわからないが、きっとあの絵を描いたときには、もうその動かしようのない事実を知っていたはずだ。だから、あんな絵を描くことができたのだ。
モノクロに青一色が入った抽象画。
それは見る人によって、さまざまな意味を持った絵に見えるだろう。けれど、私はその絵の意味が、作者の込めた気持ちという、本当の意味でわかるような気がしていた。
そして、きっとそれは私にしかわからない、そんな気もしていた。月森くんと、その病を知る私にしかわからない、絵の意味。多くの人は、その意味を彼の死後に知るはずだ。短すぎる余命と向き合った人の、勇気と希望のようなものを。
益田駅で、私たちは駅を出ると、バスを探した。運良く、バスはすぐにやってきて、私たちはそれに乗り込む。そのとき、私はふと、乗り込む人の中に見覚えのある顔を見つけた。
「もう、お母さんたら……」
思わずつぶやく。
「え? 何か言うた?」
怪訝な顔をした月森くんが振り返る。
「あ、ううん、何でも……あの、楽しみですね」
焦って言うと、「そうやね」、彼はうなずいた。車窓に視線を戻す。私はそれを確認してから、そっと後ろを振り返る。
――やっぱり。
私たちの後から乗り込んできた一人の男性。それは、佳菜子さんの旦那さんの航平さんだった。きっと、お母さんがついていくように頼んだのだろう。
大丈夫だって言ったのに、小さなため息を私はついた。けれど、すぐに気分を持ち直した。お母さんが、私のことを思ってしてくれていることだ。航平さんにいたっては、璃奈ちゃんとの休日をなげうってまで来てくれているのだ。こんな私のわがままのために。
それなら、精一杯楽しまなきゃ、私はまだ見ぬ絵に思いを馳せた。
「……初めてや。ここに来るの」
すぐに見えてきたそのモダンな姿に、月森くんがつぶやいた。
「そうなんですか」
その隣で私は答えながら、胸は絵への期待と近すぎる月森くんとの距離でドキドキが止まらなかった。ほかにはどんな絵が飾ってあるんだろう。きっと素晴らしい絵に違いない。それを書いた本人と見られるなんて。
はやる気持ちを抑えて、バスを降りる。先に行く月森くんの後をついて歩く。日傘を差して歩く私は並んで歩くことが難しいし、それに何より歩くのが遅すぎる。
姿が見えないはずの私を気遣って、月森くんはゆっくりと歩いてくれた。あの「振り返っちゃダメ」ゲームは、参道だけの遊びのつもりだったのに、振り向くとまた「お願い」を聞かなければいけなくなると思っているのだろうか。彼は頑なに振り向こうとはしない。
「月森くん」
イタズラ心が芽生えた私は、彼の背中に呼びかけた。
「何?」
やっぱり彼は振り向かない。私は息を大きく吸い込むと、
「あっ、あんなところにUFOが!」
「……そがぁなことで振り向くと思ってる?」
辛辣に、月森くん。
「ネタが昭和やろ」
「ですよね……」
私は一旦納得するふりをして、
「あっ、あんなところに空飛ぶ円盤が!」
「……それ、同じやろ」
「あっ、あんなところに未確認飛行物体が!」
「……」
と、月森くんの足が止まった。さすがにからかいすぎただろうかと怯える私に、彼はふと道路脇の茂みを指した。
「いま、あそこにツチノコがおったで」
「えっ?」
ギョッとして指された方を見る。がしかし、そこには何もいない。
「月森くん、もしかして……」
はっとする私に、
「いま、引っかかったやろ」
笑いを含んだ月森くんの声。やられた、私は一瞬頭を抱えるが、すぐに起死回生の一言を思いついた。
「あっ、でも、私が引っかかったことを知ってるってことは、月森くんもこっちを振り返ったってことじゃ……」
「そんなの反応でわかるやろ」
「……そうですね」
あっけなく白旗を揚げた私に、月森くんが笑った。いつもの皮肉な笑いではない、楽しそうな笑い声だ。
あれ? こんなふうに彼が笑うのってすごく珍しいんじゃないだろうか。どんな顔をして笑ってるんだろう、その表情を見てみたいと思ったが、彼はさっさと美術館の中へ入っていってしまう。
涼しい。
私はほっと息をついた。美術館独特の厳かな雰囲気に、はしゃいでいた気持ちがすうっと静まる。
「……学生さん、お二人ですか?」
私たちに気づいた受付のお姉さんが、穏やかに尋ねた。「はい」、月森くんが答え、
「あ、これ、私の分……」
私は三百円を差し出す。
すると、お姉さんが私たちを交互に見比べ、にこりと微笑んだ。彼氏と彼女のように見えたのだろうか、そんな想像をして、ひとりでに顔が赤くなる。
「展示室はあちらでございます。ごゆっくりどうぞ」
お姉さんの声に送られて、私たちは静かに張り詰めたような空間を歩いた。
「……よく来るん? こういうとこ」
静けさに合わせるように、月森くんが低い声で言った。
「えっと、実は……初めてで」
どう説明したものかと言い淀む。
「でも、どうしても見たい絵があって」
「ここに?」
怪訝そうな月森くん。
自分の作品が飾られているのだ。ここまで来たら気づいても良さそうなものなのに、何の変化も見られない彼に、私は少し違和感を抱く。それとも、作品がどこに飾られているのか、画家はあまり気にしないんだろうか。
「へえ、そんなすごいとこなんや」
「うん、すごい……みたいです」
変な空気を感じながらも、案内図を見つけた私は、お目当てのコーナーを探した。
「地元の画家」は「展示室A」。早く月森くんの絵が見たい、その一心で展示室Aを探す。
「あっちですね」
無意識に、胸の鼓動が速くなる。そのせいで、心臓が痛い。落ち着いて、落ち着いて、そう言い聞かせながら、私は展示室に足を踏み入れる。
心の準備はまだ全然できていなかった。だというのに、その絵は入り口の真正面に飾られていた。作者の名前を確認しなくとも、それが私の求めていた絵だということが、すぐにわかった。
「これ……」
私はつぶやいて、立ち尽くした。
綺麗、美しい、幻想的、耽美……目から神経へ伝わったその絵を、脳みそが言葉に変換していく。けど、その組み立てられた言葉たちを全部捨てるように、私は一度首を振った。それから、もう一度、今度はそれが言葉にならないように、絵のすべてを受け入れるように瞳に映す。
それは案外大変なことだった。けれど、そうして見れば見るほど、その絵は私と一体化して、体の隅々まで入り込んでいくようだった。