嘘は世界を軽くする
実は私は一度、両親に連れられて、ピカソだったかゴッホだったか、そんな有名な絵を見たことがある。けれど、恥ずかしいことにその価値はまるでわからなかった。ほかに飾られていた歴史的な画家の絵にも、心は動くことがなかった。
きっと、素晴らしい絵画を描くのも才能が要るけれど、絵画を見るにも才能がいるんだろう。
私は気落ちしながらも、そういうふうに考えていた。そうだとしたら、私には絵画を見る才能はゼロで、どんなものを見せられてもあまりピンとこない、鈍感な人間だった。
けれど、この人の描く絵は違った。最初あの大きな絵を目にしたときから、私にはこの彼の描きたいもの――テーマ性がすんなりと入ってきた。
それは私と共鳴を起こし、大げさなことを言ってしまえば、表した彼と見る私の二人の間で、絵画は初めて一個の作品となり得たかのようだった。
私はその絵の前で立ち尽くした。視覚を言葉にすることをやめれば、それは音楽のようだとさえ思った。永遠に終わることのない、いつまでも鳴り響く美しい旋律だ。
「…………」
その音に耳を傾けていると、ふと隣で絵を見つめる月森くんの気配がした。彼は何を思ってこの絵を見ているのだろう。自分の名が添えられた、この素晴らしい絵に。
私はやっと絵から視線をずらし、作品の解説に目を向けた。
『作者・月森寛人』。白いプレートに、まず彼の名前。それからその下に生まれ年が記されていて――
「……昭和三十年?」
何かの見間違いかと、私はプレートに近づいた。緊張のせいか、何だか足がふわふわしている。頭がうまく働かなくて、そこに書かれていることの意味がわからない。
そこには、月森寛人は昭和三十年生まれであり、津和野の画家だと書かれていた。また、彼は生まれながらの病を抱えた体で絵筆を取り、十九の年には日展で入選、それからさまざまな賞に輝いたことも。
そして、最後は、『二十一歳でその才能を惜しまれつつ亡くなった』。そんな一文で締められている。
亡くなった。
その言葉だけが、空っぽになった胸にぽつん、と浮かび、フェードアウトして消えた。
じゃあ、私の隣にいるこの人は誰?
そんな疑問が浮かび上がり、すぐに私はそれを打ち消す。
私の隣にいるのは、月森くんだ。月森ヒロト。私の「お願い」を聞いて、こんなところまでついてきてくれた優しい男の子だ。ただの「月森ヒロト」だ。
怒濤のように感情が溢れてくる。それに逆らうように、私は首を振った。
いや、ただの「月森ヒロト」だなんて、そんなこと言っちゃだめだ。だって彼は何も悪くない。私だ。勝手に彼をあの絵の作者だと思い込んだ、私が悪いんだ。それも少し考えればわかりそうなものを、どうして勝手に勘違いしてしまったんだろう。しかも、こんなにひどい勘違いを。
「……この人、僕の叔父さんなんや」
ぼそり、私の後ろで月森くんがつぶやいた。
「寛人って名前は、この人からもらった。だから、同姓同名で……」
「……そうなんだ」
まるで別人のような声が、私の喉から出た。勝手に勘違いして、勝手に失望するなんてあまりに失礼だ、そう思うのに、いまはぐちゃぐちゃな思いばかりがこみ上げてきて、全然上手くしゃべれない。
「この人、月森くんの叔父さんなんだ。すごいね」
ああ、こんなに感情を失ったような声で話したくないのに。
「私、この人の絵、見たことあるの。それで、どうしてもほかの絵も見たくなって」
白昼夢を見ているような感覚に、自分が何をしゃべっているのかよくわからない。
「早くに亡くなっちゃったなんて、残念だね。こんなにすごい絵を描くのに。私、絵で感動したのなんて初めてなのに」
「……そがぁ気に入ったんや」
月森くんの低い声。バカな私の失望は、彼に伝わってしまっただろうか。だとしたら、彼はいま、どんな顔をしているだろうか。
振り向くことができずに、私は小さく呼吸をしながら、プレートを見つめた。亡くなった、もう何十年も前に亡くなってしまった、月森くんと同姓同名の若い画家のことを思った。
彼はどんな人だっただろう。生まれながらの病で苦しみながら、自分の命が短いことを知りながら、どうしてこんなに強い絵を描くことができたんだろう。どうやって短い人生と向き合って、亡くなるときには何を考えていたんだろう。
希望。
涙が溢れてくるのを感じながら、私は彼の絵に目を戻した。
私が感動したあの大きな絵も、目の前のこの絵にも、共通して描かれているのは太陽のように輝く希望の光だった。
その一筆一筆が、いま僕は生きているという喜びを刻み、その喜びが大きな大きな希望を描き出していた。いまこの一瞬に生きられる喜び、連綿と続く一瞬が刻む、大きな時間の流れ。その流れの中にいられる喜び。少しでもそこに在りたいという希望。一分後も、一時間後も、夜を越えて朝が来て、また新しい明日が来る、そのときまで。
一瞬は永遠だ、この絵を見ているとそう思える。与えられた時間の喜びに素直に浸ることができる。その短さや長さに不平等はない。だって、私はいま、生きているんだから。
さよなら、絵のすべてを体に刻み込むと、私は順路に沿ってほかの絵を見た。いつもとは逆に、月森くんは私の後からついてきた。私は彼を振り返らなかった。いや、振り返ろうともそれができなかったのだ。
それでも、航平さんが私たちの後からついてくる気配だけはずっと感じていた。
*
すべての展示を見終わると、私たちはどちらともなしに併設の喫茶店に足を向けた。二人ともアイスティーを頼むと、私はうつむき、彼は窓の外に視線をやった。
いままで向かい合わせになることがなかったから、照れくさいというのもあったのだろう。けれど、バカな勘違いをした私はといえば、絵を通じて抱いていた彼への恋心を疑うようになっていた。
私はあの絵が好きだった。彼の描き出した希望に憧れた。だからこそ、その作者が目の前の彼ではないとわかったいまは、彼のことが好きなのかどうかさえよくわからなくなっていた。
「……失礼します、こちらアイスティーです」
ウェイターのお兄さんが結露したトールグラスに入った紅茶と、ストローを置いてくれる。
「ガムシロップはそちらのものをお使い下さい」
窓際に置かれた小さなカゴを指す。ぺこり、小さくお辞儀すると、私を追いかけて喫茶店に入ってきていたらしい航平さんと目が合った。航平さんがしまった、という表情をする。
「………」
どうしていいのかわからずに、私はそのまま目をそらした。普段ならば、声をかけてしまったかもしれないけれど、いまはそんな気分でもない。
ふと視線を戻すと、月森くんが航平さんのほうを見ているのに気づいた。
航平さんは気づかれないようについてきているつもりなんだろうけど、私だけじゃなく、月森くんにまで気づかれるなんて、探偵の才能はないみたいだ。まあ、航平さんはただの会社員なんだから、気づかれずに尾行、なんて最初から無理だと思うんだけど。
「……いる?」
そんなことをぼうっと考えていると、いつのまにか視線を戻した月森くんが、ガムシロップを差し出していた。
「……うん、ありがとう」
私はそれを受け取って、紅茶の中に入れる。ゆるゆると粘度のあるシロップがグラスの底に溜まっていく。ストローでそれをかき混ぜてから、吸い込む。思ったよりも甘い液体が喉を潤した。
「……甘いな」
ひとりごとか、それとも会話のきっかけを作ってくれているのか、そんなギリギリのラインで彼がつぶやく。
「……甘いね、ホントに」
沈んでしまった気分を盛り上げようと、私は答えた。このまま落ち込んでいたら、せっかく付き合ってくれた月森くんに悪い。けれど、気持ちとは不便なもので、上げようと思ったからってなかなか上がるものじゃない。私は結局、上手く言葉を継げずに黙り込んだ。
「……おじさんだけど」
ややあって、月森くんが言った。
彼から話しかけてくることは、あまりない。きっと気を遣わせてしまっているのだろう――そんな考えが先に浮かび、彼の言う「おじさん」が「叔父さん」、つまり画家である「月森寛人」のことだと気づいたのはそのあとだった。
「叔父さんには会ったこともないし、父さんも話さないから、あんまり知らないんや」
自分と同姓同名の叔父を混同していたのだと、彼はそう気づいたのだろう。申し訳なく思うのは私のほうなのに、彼はよく知らない叔父さんのことを話そうとしてくれている。
やっぱり、優しい人だ。
そう思ったが、やはり気持ちがついていかず、私は無言でこくりとうなずく。
「でもな……じいちゃんは叔父さんのことが好きやったから、じいちゃんちにスケッチとかそういうんが残ってるかもしれんけど……」
それを見たいとも見たくないとも言わず、私は再びうなずいた。こんな雰囲気のまま、彼の優しさに甘えていいのかどうか、よくわからなかった。
私の反応に、彼はくちびるを噛んだ。再び沈黙が流れた。それを破ったのは、今度は完全にひとりごとだとわかる、彼のつぶやきだった。
「……完璧やんな」
つぶやきの意味がわからず、私は顔を上げた。真正面で、私と彼の視線がぶつかった。
「すごい才能があって、不治の病で若くして死ぬとか、完璧やんな」
そう言うと、彼はつと視線を逸らした。それはまるで私を恐れるような仕草だった。何を恐れるようなことがあるのだろう、けれど思い返してみれば、彼はいつもこうして何かを恐れているような気がした。私を、日熊さんを、それから彼に近づいてくる人すべてを――。
そのとき、彼が伝票を持って立ち上がった。「出よう」、短くそう言って、レジに向かう。
「え、でも……」
二人のアイスティーはまだ半分以上残っている。それでも会計を済ませてしまう彼に、私は戸惑った。
「早く」
「どうしたの? 早くって、そんなに急がなくても……」
「いいから」
そう言ったときだった。彼の目がふと険しくなった。どうしたのかと振り返ると、そこにはトイレに席を立っていたらしい航平さんがちょうど戻ってきたところだった。
「行こう」
すると、日傘を持った手がぐいと引かれた。喫茶店から飛び出して、むわっと暑い中を走り出す。
「ちょ、ちょっと待って、私……」
強引に引かれる手を解こうとすると、
「ずっと藤川さんのことつけてきてるやつがいる、だから逃げよう」
そう言って、私の手を掴んで走る。あんまり強い力に、私はダメだと知りながら走ってしまう。
「あれは知り合いで私を見守ってくれてる人だ」、そう言いたいけれど、呼吸が一気に苦しくなり、声が出ない。照りつける太陽に目がくらむ。心臓が早鐘を打っている。月森くんの手が汗ばんでいる。どこまで走ればいいのだろう? 胸が痛い。このままじゃ、きっと、私――
ドン。衝撃が全身を襲った。転んだのだ、そう気づいたのはそのあとで、潰れるような胸の痛みに何が起こったのか理解したのは、そのもっとあとだった。
「藤川さん!」
遠ざかっていく意識に、月森くんの声が届く。
「藤川さん!」
必死に私に呼びかける声がする。
楽しそうに笑ってくれた月森くん。落ち込んだ私を励ましてくれようとした月森くん。今日は彼の初めての部分をたくさん知ることができた。
――そして、いまこの瞬間だって。
見えているのか定かではない目を懸命に開き、私は白い光を感じた。
必死になって叫ぶ月森くん――こんな声を聞いたのも初めてだ。
世界がフェードアウトする直前、私が思ったのはそんなことだった。
お父さんの顔も、お母さんの顔も、そのときにはなぜか浮かぶことがなかった。
きっと、素晴らしい絵画を描くのも才能が要るけれど、絵画を見るにも才能がいるんだろう。
私は気落ちしながらも、そういうふうに考えていた。そうだとしたら、私には絵画を見る才能はゼロで、どんなものを見せられてもあまりピンとこない、鈍感な人間だった。
けれど、この人の描く絵は違った。最初あの大きな絵を目にしたときから、私にはこの彼の描きたいもの――テーマ性がすんなりと入ってきた。
それは私と共鳴を起こし、大げさなことを言ってしまえば、表した彼と見る私の二人の間で、絵画は初めて一個の作品となり得たかのようだった。
私はその絵の前で立ち尽くした。視覚を言葉にすることをやめれば、それは音楽のようだとさえ思った。永遠に終わることのない、いつまでも鳴り響く美しい旋律だ。
「…………」
その音に耳を傾けていると、ふと隣で絵を見つめる月森くんの気配がした。彼は何を思ってこの絵を見ているのだろう。自分の名が添えられた、この素晴らしい絵に。
私はやっと絵から視線をずらし、作品の解説に目を向けた。
『作者・月森寛人』。白いプレートに、まず彼の名前。それからその下に生まれ年が記されていて――
「……昭和三十年?」
何かの見間違いかと、私はプレートに近づいた。緊張のせいか、何だか足がふわふわしている。頭がうまく働かなくて、そこに書かれていることの意味がわからない。
そこには、月森寛人は昭和三十年生まれであり、津和野の画家だと書かれていた。また、彼は生まれながらの病を抱えた体で絵筆を取り、十九の年には日展で入選、それからさまざまな賞に輝いたことも。
そして、最後は、『二十一歳でその才能を惜しまれつつ亡くなった』。そんな一文で締められている。
亡くなった。
その言葉だけが、空っぽになった胸にぽつん、と浮かび、フェードアウトして消えた。
じゃあ、私の隣にいるこの人は誰?
そんな疑問が浮かび上がり、すぐに私はそれを打ち消す。
私の隣にいるのは、月森くんだ。月森ヒロト。私の「お願い」を聞いて、こんなところまでついてきてくれた優しい男の子だ。ただの「月森ヒロト」だ。
怒濤のように感情が溢れてくる。それに逆らうように、私は首を振った。
いや、ただの「月森ヒロト」だなんて、そんなこと言っちゃだめだ。だって彼は何も悪くない。私だ。勝手に彼をあの絵の作者だと思い込んだ、私が悪いんだ。それも少し考えればわかりそうなものを、どうして勝手に勘違いしてしまったんだろう。しかも、こんなにひどい勘違いを。
「……この人、僕の叔父さんなんや」
ぼそり、私の後ろで月森くんがつぶやいた。
「寛人って名前は、この人からもらった。だから、同姓同名で……」
「……そうなんだ」
まるで別人のような声が、私の喉から出た。勝手に勘違いして、勝手に失望するなんてあまりに失礼だ、そう思うのに、いまはぐちゃぐちゃな思いばかりがこみ上げてきて、全然上手くしゃべれない。
「この人、月森くんの叔父さんなんだ。すごいね」
ああ、こんなに感情を失ったような声で話したくないのに。
「私、この人の絵、見たことあるの。それで、どうしてもほかの絵も見たくなって」
白昼夢を見ているような感覚に、自分が何をしゃべっているのかよくわからない。
「早くに亡くなっちゃったなんて、残念だね。こんなにすごい絵を描くのに。私、絵で感動したのなんて初めてなのに」
「……そがぁ気に入ったんや」
月森くんの低い声。バカな私の失望は、彼に伝わってしまっただろうか。だとしたら、彼はいま、どんな顔をしているだろうか。
振り向くことができずに、私は小さく呼吸をしながら、プレートを見つめた。亡くなった、もう何十年も前に亡くなってしまった、月森くんと同姓同名の若い画家のことを思った。
彼はどんな人だっただろう。生まれながらの病で苦しみながら、自分の命が短いことを知りながら、どうしてこんなに強い絵を描くことができたんだろう。どうやって短い人生と向き合って、亡くなるときには何を考えていたんだろう。
希望。
涙が溢れてくるのを感じながら、私は彼の絵に目を戻した。
私が感動したあの大きな絵も、目の前のこの絵にも、共通して描かれているのは太陽のように輝く希望の光だった。
その一筆一筆が、いま僕は生きているという喜びを刻み、その喜びが大きな大きな希望を描き出していた。いまこの一瞬に生きられる喜び、連綿と続く一瞬が刻む、大きな時間の流れ。その流れの中にいられる喜び。少しでもそこに在りたいという希望。一分後も、一時間後も、夜を越えて朝が来て、また新しい明日が来る、そのときまで。
一瞬は永遠だ、この絵を見ているとそう思える。与えられた時間の喜びに素直に浸ることができる。その短さや長さに不平等はない。だって、私はいま、生きているんだから。
さよなら、絵のすべてを体に刻み込むと、私は順路に沿ってほかの絵を見た。いつもとは逆に、月森くんは私の後からついてきた。私は彼を振り返らなかった。いや、振り返ろうともそれができなかったのだ。
それでも、航平さんが私たちの後からついてくる気配だけはずっと感じていた。
*
すべての展示を見終わると、私たちはどちらともなしに併設の喫茶店に足を向けた。二人ともアイスティーを頼むと、私はうつむき、彼は窓の外に視線をやった。
いままで向かい合わせになることがなかったから、照れくさいというのもあったのだろう。けれど、バカな勘違いをした私はといえば、絵を通じて抱いていた彼への恋心を疑うようになっていた。
私はあの絵が好きだった。彼の描き出した希望に憧れた。だからこそ、その作者が目の前の彼ではないとわかったいまは、彼のことが好きなのかどうかさえよくわからなくなっていた。
「……失礼します、こちらアイスティーです」
ウェイターのお兄さんが結露したトールグラスに入った紅茶と、ストローを置いてくれる。
「ガムシロップはそちらのものをお使い下さい」
窓際に置かれた小さなカゴを指す。ぺこり、小さくお辞儀すると、私を追いかけて喫茶店に入ってきていたらしい航平さんと目が合った。航平さんがしまった、という表情をする。
「………」
どうしていいのかわからずに、私はそのまま目をそらした。普段ならば、声をかけてしまったかもしれないけれど、いまはそんな気分でもない。
ふと視線を戻すと、月森くんが航平さんのほうを見ているのに気づいた。
航平さんは気づかれないようについてきているつもりなんだろうけど、私だけじゃなく、月森くんにまで気づかれるなんて、探偵の才能はないみたいだ。まあ、航平さんはただの会社員なんだから、気づかれずに尾行、なんて最初から無理だと思うんだけど。
「……いる?」
そんなことをぼうっと考えていると、いつのまにか視線を戻した月森くんが、ガムシロップを差し出していた。
「……うん、ありがとう」
私はそれを受け取って、紅茶の中に入れる。ゆるゆると粘度のあるシロップがグラスの底に溜まっていく。ストローでそれをかき混ぜてから、吸い込む。思ったよりも甘い液体が喉を潤した。
「……甘いな」
ひとりごとか、それとも会話のきっかけを作ってくれているのか、そんなギリギリのラインで彼がつぶやく。
「……甘いね、ホントに」
沈んでしまった気分を盛り上げようと、私は答えた。このまま落ち込んでいたら、せっかく付き合ってくれた月森くんに悪い。けれど、気持ちとは不便なもので、上げようと思ったからってなかなか上がるものじゃない。私は結局、上手く言葉を継げずに黙り込んだ。
「……おじさんだけど」
ややあって、月森くんが言った。
彼から話しかけてくることは、あまりない。きっと気を遣わせてしまっているのだろう――そんな考えが先に浮かび、彼の言う「おじさん」が「叔父さん」、つまり画家である「月森寛人」のことだと気づいたのはそのあとだった。
「叔父さんには会ったこともないし、父さんも話さないから、あんまり知らないんや」
自分と同姓同名の叔父を混同していたのだと、彼はそう気づいたのだろう。申し訳なく思うのは私のほうなのに、彼はよく知らない叔父さんのことを話そうとしてくれている。
やっぱり、優しい人だ。
そう思ったが、やはり気持ちがついていかず、私は無言でこくりとうなずく。
「でもな……じいちゃんは叔父さんのことが好きやったから、じいちゃんちにスケッチとかそういうんが残ってるかもしれんけど……」
それを見たいとも見たくないとも言わず、私は再びうなずいた。こんな雰囲気のまま、彼の優しさに甘えていいのかどうか、よくわからなかった。
私の反応に、彼はくちびるを噛んだ。再び沈黙が流れた。それを破ったのは、今度は完全にひとりごとだとわかる、彼のつぶやきだった。
「……完璧やんな」
つぶやきの意味がわからず、私は顔を上げた。真正面で、私と彼の視線がぶつかった。
「すごい才能があって、不治の病で若くして死ぬとか、完璧やんな」
そう言うと、彼はつと視線を逸らした。それはまるで私を恐れるような仕草だった。何を恐れるようなことがあるのだろう、けれど思い返してみれば、彼はいつもこうして何かを恐れているような気がした。私を、日熊さんを、それから彼に近づいてくる人すべてを――。
そのとき、彼が伝票を持って立ち上がった。「出よう」、短くそう言って、レジに向かう。
「え、でも……」
二人のアイスティーはまだ半分以上残っている。それでも会計を済ませてしまう彼に、私は戸惑った。
「早く」
「どうしたの? 早くって、そんなに急がなくても……」
「いいから」
そう言ったときだった。彼の目がふと険しくなった。どうしたのかと振り返ると、そこにはトイレに席を立っていたらしい航平さんがちょうど戻ってきたところだった。
「行こう」
すると、日傘を持った手がぐいと引かれた。喫茶店から飛び出して、むわっと暑い中を走り出す。
「ちょ、ちょっと待って、私……」
強引に引かれる手を解こうとすると、
「ずっと藤川さんのことつけてきてるやつがいる、だから逃げよう」
そう言って、私の手を掴んで走る。あんまり強い力に、私はダメだと知りながら走ってしまう。
「あれは知り合いで私を見守ってくれてる人だ」、そう言いたいけれど、呼吸が一気に苦しくなり、声が出ない。照りつける太陽に目がくらむ。心臓が早鐘を打っている。月森くんの手が汗ばんでいる。どこまで走ればいいのだろう? 胸が痛い。このままじゃ、きっと、私――
ドン。衝撃が全身を襲った。転んだのだ、そう気づいたのはそのあとで、潰れるような胸の痛みに何が起こったのか理解したのは、そのもっとあとだった。
「藤川さん!」
遠ざかっていく意識に、月森くんの声が届く。
「藤川さん!」
必死に私に呼びかける声がする。
楽しそうに笑ってくれた月森くん。落ち込んだ私を励ましてくれようとした月森くん。今日は彼の初めての部分をたくさん知ることができた。
――そして、いまこの瞬間だって。
見えているのか定かではない目を懸命に開き、私は白い光を感じた。
必死になって叫ぶ月森くん――こんな声を聞いたのも初めてだ。
世界がフェードアウトする直前、私が思ったのはそんなことだった。
お父さんの顔も、お母さんの顔も、そのときにはなぜか浮かぶことがなかった。