嘘は世界を軽くする
前髪から滴り落ちた雨が、まるで涙のように頬を伝って流れ落ちる。
石段を最後まで登り切り、僕は広い境内を見渡した。
『月森くん!』、そう呼んでくれる彼女を探して、立ち尽くす。
雨。石畳を跳ねる雨で、視界が煙る。灰色の風景が目の前に広がっている。
『せっかく来たんだから、お参りしていきませんか?』、あの白い日傘を雨傘に変え、彼女ならそう僕を誘ってくれるだろうか。『お参りの前には手を清めないと』、そう言って、手水場から振り返るだろうか。日熊さん――あのオッサンのお茶の誘いにも楽しげについていって、熱いお茶じゃなくて冷たいお茶がいいです、と我を通すだろうか。
あの強さは一体どこから来るのだろう。笑顔はどんな感情から生まれるのだろう。救急車の中で青ざめていく彼女に怯え、集中治療室の前から逃げた僕に、その秘密が明かされることはなかった。
それでもあの日、ただ一つだけ、僕は僕の知らなかった彼女の日常を垣間見た。
それは、彼女のかかりつけだという大きな病院に足を踏み入れた瞬間のことだった。その真っ白なエントランスの大きな吹き抜け。何か懐かしいような気配を感じて見上げると、そこには大きな絵画がかかっていた。
モノクロに青一色が入った抽象画。「月森寛人」の絵は、そこに飾られていたのだ。
その絵は抽象画であるがゆえに、何を表したものなのか、僕には全く理解できなかった。けれど、ICUから逃げた僕は、並んだ長椅子の一つに座り、その絵をじっと眺め続けた。
その日は日曜だったため、照明はすべて落とされており、病院は静かに薄暗かった。吹き抜けから落ちてくる光だけが、叔父さんの絵を照らしている。
きっと、彼女もこうしてあの大きな絵を見つめていたのだろう。いや、見つめていたはずだ。僕は思った。
彼女の心臓がどれだけ悪いのか、どれだけこの病院に通っていたのか、僕は知らない。けれど、きっと彼女はここへ来るたびに、この絵をじっと見つめていた。まるで、その目に焼きつけようとでもいうように……。
けれど、今日の彼女はこの絵を見ることなく、ICUへ入ってしまった。昭和四十九年、叔父さんが死の直前に描いたこの絵を見ることなく――。
――彼女がこの絵を気に入ったのは、叔父さんが早死にしたことと関係があるのだろうか。
ふと、不吉な考えがよぎり、僕は強く首を振った。
死を前にした者同士の共鳴。そんなもの、あってたまるものか。叔父さんは白血病で死んだと聞いたけれど、彼女は心臓だ。それに今日は僕が無理矢理走らせたからこうなっただけで、いつもは全然、元気そうだった……そう思ってから、僕はつぶやく。
「違う……」
そう、違う。全然違う。彼女は元気だった? いや、そんなはずない。思い出せ、初めて会った日のことを。あのいつでも青白い顔を、華奢な体を、必要以上にゆっくりと歩くあの足取りを、太陽の光を遮る日傘を。
『……唯ちゃんは、君に話してなかったんだね』
声に顔を上げると、あのストーカーがいた。
『いや、ごめん。君を責めるようなことを言って。……僕は野本航平。唯ちゃんは、奥さんの親戚の子で……』
涙声になるのを我慢するように、彼は咳払いをした。
『もうすぐ、唯ちゃんのご家族も来ると思う。……君はどうする? お家の人に来てもらおうか?』
『ここに……』
ここにいちゃダメですか、言いかけた言葉を僕は飲み込んだ。彼女がICUにいるというのに、最低な僕は彼女の家族に会うのが怖いだなんて考えていた。だから、野本さんの言葉に救われた。
『唯ちゃんは、ICUをいつ出られるかわからない。君も一晩中ここにいるわけにもいかないだろうし、お家の人も心配すると思うから』
彼の勧めに、僕は素直に従った。ここにいると逆に迷惑をかけるとか、母さんが心配するだろうとか、そういう理由ではなく、自分が怖かったからそうした。
『君の連絡先を教えてくれる? 何かあったら知らせるよ』
その言葉を最後に、僕は病院を出た。夏の青い夕方が、涼しい風と共に体を包み込んだ。行き交う車のヘッドライトが光り、行き場のない僕を照らし出す。
『あんた、どうしたん、こんなとこで』
迎えに来てくれた母さんが、しかめっ面で病院を見上げた。それには答えず、僕は車に乗り込んだ。思えば、あのときから、空模様はあやしかった。あの雲が、今日の雨を呼んだに違いなかった。
『ICUは出られたよ。唯ちゃんは大丈夫だ。まだ面会謝絶だけど、できるようになったら、お見舞いにでも来てほしい』
今朝、野本さんからはそんな連絡が入っていた。僕はほっとして――それでも午後二時に合わせるようにここへ来た。言ったとおり、ただのアピールだ。パフォーマンスだ。けれど、そうでもしていないと、胸が疼いて仕方なかった。
誰もいない境内に背を向けると、僕はさっき上ってきたばかりの山道を下る。後ろからあのゆっくりとした足音は聞こえない。だというのに、
『振り向いちゃダメですよ』
空耳が聞こえる。
『私が何を言っても、絶対に振り向かないで下さいね』
あのイタズラっぽい声で言う。
「……振り向かないよ」
そうつぶやく。これもアピールだ。「密かに恋心を抱いていた相手に会えなくなって、可哀想な僕」というアピール。「彼女のために参拝に来たけれど、祈ることもできずに帰る僕」というアピール。
それに比べて、毎日お参りに来ていた彼女のそれは「設定」なんかじゃなかった。彼女には本当に叶えたい願い事があった。病気が治りますように、真剣にそう願っていた。だというのに、僕は余命が二年だなんていう嘘を――。
「まさか……」
そこまで考えて、僕はぞっとした。
あの日、僕が拾い上げた短冊。『大人になるまで、生きていられますように。』、そんな願い事が書かれた蒼い短冊。あれは、まさか彼女が書いたものじゃ……?
いや、そんなはずはない。
ふと生まれた疑惑を、僕は自分で打ち消した。彼女はあの短冊を見た上で、僕の嘘を信じたのだ。もし、あれが彼女の願い事ならば、そんな嘘を信じるはずがないし、大体彼女が大人になるまで生きられない、だなんてそんな話、野本さんも言っていなかった。
――だから、あれは彼女の短冊ではない。
ざああ、足を止めた僕の耳に、雨音が大きく響いた。引き返して、短冊を確かめたい。そんな衝動に襲われる。
僕は彼女の字を知らない。けれど、いまその文字を見れば、彼女のものかどうか、それくらいは区別がつきそうな気がした。僕は後ろを振り向きかけた。
『ダメですよ、振り向いちゃ』
瞬間、空耳が聞こえた。
そうだ、振り返っちゃいけない。僕はすんでのところで思いとどまると、石段を下りた。
『そうです、振り返らないで下さいね』
すると、空耳は楽しげに言った。
「振り返ったら、どうなる?」
僕はつぶやく。
『それはですね』
空耳は楽しそうだ。
『もし、振り返っちゃったら――』
「振り返っちゃったら?」
『願い事は、叶わなくなります』
――ああ、そうか。
空耳の言うことに、僕は納得した。
『そうですよ、知らなかったんですか?』
問いに、うん、とうなずく。けれど、知ってしまえば、それは至極当たり前のような気がした。
イザナギは見てはいけないと言われたにもかかわらず、見てしまった。ギリシャ神話では、振り返ってはいけないと言われたにもかかわらず、振り返ってしまった。その結末はどうだ。二人とも、最愛の妻を失ってしまった。ただ、その簡単な約束を破ってしまったばかりに。
見ちゃいけない、振り向いちゃいけない、それは願いが叶う条件だった。
「なら、僕は絶対に振り向かないよ」
自分自身に確かめるために、僕は言った。アピールだとか、パフォーマンスだとかは、頭の中から消えていた。僕はただ、彼女のことだけを考えていた。そうすると、必然として「僕」のことは胸からすっぽりと抜け落ちてしまうのだった。
「絶対に、振り向かない」
もう一度、僕は言った。
僕が振り向かなければ、彼女は消えてしまわない。イザナギのように、ギリシャ神話のように、悲しい結末には至らない。
そう決意して歩き出すと、後ろにいないはずの彼女が、微笑むような気配がした。
石段を最後まで登り切り、僕は広い境内を見渡した。
『月森くん!』、そう呼んでくれる彼女を探して、立ち尽くす。
雨。石畳を跳ねる雨で、視界が煙る。灰色の風景が目の前に広がっている。
『せっかく来たんだから、お参りしていきませんか?』、あの白い日傘を雨傘に変え、彼女ならそう僕を誘ってくれるだろうか。『お参りの前には手を清めないと』、そう言って、手水場から振り返るだろうか。日熊さん――あのオッサンのお茶の誘いにも楽しげについていって、熱いお茶じゃなくて冷たいお茶がいいです、と我を通すだろうか。
あの強さは一体どこから来るのだろう。笑顔はどんな感情から生まれるのだろう。救急車の中で青ざめていく彼女に怯え、集中治療室の前から逃げた僕に、その秘密が明かされることはなかった。
それでもあの日、ただ一つだけ、僕は僕の知らなかった彼女の日常を垣間見た。
それは、彼女のかかりつけだという大きな病院に足を踏み入れた瞬間のことだった。その真っ白なエントランスの大きな吹き抜け。何か懐かしいような気配を感じて見上げると、そこには大きな絵画がかかっていた。
モノクロに青一色が入った抽象画。「月森寛人」の絵は、そこに飾られていたのだ。
その絵は抽象画であるがゆえに、何を表したものなのか、僕には全く理解できなかった。けれど、ICUから逃げた僕は、並んだ長椅子の一つに座り、その絵をじっと眺め続けた。
その日は日曜だったため、照明はすべて落とされており、病院は静かに薄暗かった。吹き抜けから落ちてくる光だけが、叔父さんの絵を照らしている。
きっと、彼女もこうしてあの大きな絵を見つめていたのだろう。いや、見つめていたはずだ。僕は思った。
彼女の心臓がどれだけ悪いのか、どれだけこの病院に通っていたのか、僕は知らない。けれど、きっと彼女はここへ来るたびに、この絵をじっと見つめていた。まるで、その目に焼きつけようとでもいうように……。
けれど、今日の彼女はこの絵を見ることなく、ICUへ入ってしまった。昭和四十九年、叔父さんが死の直前に描いたこの絵を見ることなく――。
――彼女がこの絵を気に入ったのは、叔父さんが早死にしたことと関係があるのだろうか。
ふと、不吉な考えがよぎり、僕は強く首を振った。
死を前にした者同士の共鳴。そんなもの、あってたまるものか。叔父さんは白血病で死んだと聞いたけれど、彼女は心臓だ。それに今日は僕が無理矢理走らせたからこうなっただけで、いつもは全然、元気そうだった……そう思ってから、僕はつぶやく。
「違う……」
そう、違う。全然違う。彼女は元気だった? いや、そんなはずない。思い出せ、初めて会った日のことを。あのいつでも青白い顔を、華奢な体を、必要以上にゆっくりと歩くあの足取りを、太陽の光を遮る日傘を。
『……唯ちゃんは、君に話してなかったんだね』
声に顔を上げると、あのストーカーがいた。
『いや、ごめん。君を責めるようなことを言って。……僕は野本航平。唯ちゃんは、奥さんの親戚の子で……』
涙声になるのを我慢するように、彼は咳払いをした。
『もうすぐ、唯ちゃんのご家族も来ると思う。……君はどうする? お家の人に来てもらおうか?』
『ここに……』
ここにいちゃダメですか、言いかけた言葉を僕は飲み込んだ。彼女がICUにいるというのに、最低な僕は彼女の家族に会うのが怖いだなんて考えていた。だから、野本さんの言葉に救われた。
『唯ちゃんは、ICUをいつ出られるかわからない。君も一晩中ここにいるわけにもいかないだろうし、お家の人も心配すると思うから』
彼の勧めに、僕は素直に従った。ここにいると逆に迷惑をかけるとか、母さんが心配するだろうとか、そういう理由ではなく、自分が怖かったからそうした。
『君の連絡先を教えてくれる? 何かあったら知らせるよ』
その言葉を最後に、僕は病院を出た。夏の青い夕方が、涼しい風と共に体を包み込んだ。行き交う車のヘッドライトが光り、行き場のない僕を照らし出す。
『あんた、どうしたん、こんなとこで』
迎えに来てくれた母さんが、しかめっ面で病院を見上げた。それには答えず、僕は車に乗り込んだ。思えば、あのときから、空模様はあやしかった。あの雲が、今日の雨を呼んだに違いなかった。
『ICUは出られたよ。唯ちゃんは大丈夫だ。まだ面会謝絶だけど、できるようになったら、お見舞いにでも来てほしい』
今朝、野本さんからはそんな連絡が入っていた。僕はほっとして――それでも午後二時に合わせるようにここへ来た。言ったとおり、ただのアピールだ。パフォーマンスだ。けれど、そうでもしていないと、胸が疼いて仕方なかった。
誰もいない境内に背を向けると、僕はさっき上ってきたばかりの山道を下る。後ろからあのゆっくりとした足音は聞こえない。だというのに、
『振り向いちゃダメですよ』
空耳が聞こえる。
『私が何を言っても、絶対に振り向かないで下さいね』
あのイタズラっぽい声で言う。
「……振り向かないよ」
そうつぶやく。これもアピールだ。「密かに恋心を抱いていた相手に会えなくなって、可哀想な僕」というアピール。「彼女のために参拝に来たけれど、祈ることもできずに帰る僕」というアピール。
それに比べて、毎日お参りに来ていた彼女のそれは「設定」なんかじゃなかった。彼女には本当に叶えたい願い事があった。病気が治りますように、真剣にそう願っていた。だというのに、僕は余命が二年だなんていう嘘を――。
「まさか……」
そこまで考えて、僕はぞっとした。
あの日、僕が拾い上げた短冊。『大人になるまで、生きていられますように。』、そんな願い事が書かれた蒼い短冊。あれは、まさか彼女が書いたものじゃ……?
いや、そんなはずはない。
ふと生まれた疑惑を、僕は自分で打ち消した。彼女はあの短冊を見た上で、僕の嘘を信じたのだ。もし、あれが彼女の願い事ならば、そんな嘘を信じるはずがないし、大体彼女が大人になるまで生きられない、だなんてそんな話、野本さんも言っていなかった。
――だから、あれは彼女の短冊ではない。
ざああ、足を止めた僕の耳に、雨音が大きく響いた。引き返して、短冊を確かめたい。そんな衝動に襲われる。
僕は彼女の字を知らない。けれど、いまその文字を見れば、彼女のものかどうか、それくらいは区別がつきそうな気がした。僕は後ろを振り向きかけた。
『ダメですよ、振り向いちゃ』
瞬間、空耳が聞こえた。
そうだ、振り返っちゃいけない。僕はすんでのところで思いとどまると、石段を下りた。
『そうです、振り返らないで下さいね』
すると、空耳は楽しげに言った。
「振り返ったら、どうなる?」
僕はつぶやく。
『それはですね』
空耳は楽しそうだ。
『もし、振り返っちゃったら――』
「振り返っちゃったら?」
『願い事は、叶わなくなります』
――ああ、そうか。
空耳の言うことに、僕は納得した。
『そうですよ、知らなかったんですか?』
問いに、うん、とうなずく。けれど、知ってしまえば、それは至極当たり前のような気がした。
イザナギは見てはいけないと言われたにもかかわらず、見てしまった。ギリシャ神話では、振り返ってはいけないと言われたにもかかわらず、振り返ってしまった。その結末はどうだ。二人とも、最愛の妻を失ってしまった。ただ、その簡単な約束を破ってしまったばかりに。
見ちゃいけない、振り向いちゃいけない、それは願いが叶う条件だった。
「なら、僕は絶対に振り向かないよ」
自分自身に確かめるために、僕は言った。アピールだとか、パフォーマンスだとかは、頭の中から消えていた。僕はただ、彼女のことだけを考えていた。そうすると、必然として「僕」のことは胸からすっぽりと抜け落ちてしまうのだった。
「絶対に、振り向かない」
もう一度、僕は言った。
僕が振り向かなければ、彼女は消えてしまわない。イザナギのように、ギリシャ神話のように、悲しい結末には至らない。
そう決意して歩き出すと、後ろにいないはずの彼女が、微笑むような気配がした。