嘘は世界を軽くする
「やあ、藤川さん。久しぶりじゃねえ」
「日熊さん、どうしてここが……?」
病室に招き入れながら言うと、日熊さんはガッハッハと笑った。
「お、食事中だったけぇ? 見舞いには、早すぎたかね」
テーブルの上のお盆を見て言う。
「いいえ、いまちょうど終わったところなので」
「そがぁか」
珍しいものを見るように、病室を見渡す。そして、
「……これ、社務所の裏に咲いたやつなんやけど、花瓶はあるかね」
「あ、花瓶ならそっちの……」
「ええ、ええ、藤川さんは病人じゃけん、寝とって。勝手にやるけぇ……」
そう言いながら、花瓶に水を入れ、ひまわりを活けようとする。しかし、
「あれ……こりゃいかんか」
お花屋さんにあるような可愛いものではなく、骨太に咲いた大輪だ。茎の切り口の直径など優に三センチはあるだろう。そんな重さの偏ったひまわりを、花瓶が支えられるはずもない。
「こりゃ参ったなあ……」
ごりごりと頭を掻く姿に、私は思わず笑い声を上げた。心がふっと軽くなる。同時に、あの通い続けた朱色の参道がとても恋しくなった。
強い太陽の光に、夏山の濃い緑。その静けさの中の千本鳥居をゆっくりと下りていく、あの感覚。
「まあ、これでええか」
ふと感傷的になってしまった私に気づかず、日熊さんは花瓶を諦め、ひまわりを窓際に立てた。ちょうど桟に嵌まった形のそれは、窓からにょきっと生えたように、揃ってベッドの方を向いた。
「……それで、具合はどうや? 元気そうじゃけえ、安心したけんど」
「はい、結構元気で」
「そがぁか。じゃ、そろそろ退院けぇ?」
「うーん、そればっかりはわかんないんですけど」
自分に言い聞かせるように言う。「そがぁか」、今度は残念そうに言って、ごぞごぞとポケットから何かを取り出す。
「これ。うちの神社のやけんど、お守りに」
きらり、光を透かす透明な勾玉が現れる。
「わあ、いいんですか? ありがとうございます」
差し出されたそれを、私は受け取った。「さまざまな災いから持ち主を守る玉」、説明にそう書かれている。
「藤川さんは、ようお揚げをお供えしてくれたけぇ」
日熊さんが笑う。
「じゃ、またお供えしにいかないと」
私も笑った。そうしてから、行けるだろうか、不安がこみ上げる。考えても仕方がない、そう思っても、不安はふとしたことで浮かび上がってきてしまう。それは隠そうとしても隠しきれるわけでもない。
「……こういうとき、何て言葉をかけるべきかね」
すると不意に、日熊さんがつぶやいた。
「俺はこの年になっても、それがようわからんのよ。無責任に励ましてもいいのか、何なのか……けど、一緒に落ちこんどっても仕方ないじゃろ?」
「……逆の立場だったら、私もわかりません」
カラフルな手紙の束を、視界の端で感じながら、私は答えた。
もし、これがサユやマー子やイッちゃんやユミ蔵だったら。私はなんて言ったらいいのかわからない。どう接していいのかわからない。だから、大親友たちにそんな負担を押しつけまいと、私は真実を告げなかったのだ。
「大昔に一度、そんな状況に陥ってな」
日熊さんはひとりごとのように言った。
「俺と同級のやつやった。何考えてるのか、ようわからんやつでな。男のくせに女みたいに髪を伸ばしとって、教室の隅っこの暗い場所で本なんかを読んどって」
聞いています、そう示すように私はうなずく。
「群れることをせんやつやった。一人がいいんじゃ、そういう雰囲気をバシバシ出しとってな。だもんで、誰もやつには寄りつかんかったんや。けど、俺はなんちゅうか、昔っからお節介なとこがあったんやろな。そいつに近寄ったんじゃ。何かと声をかける俺を、やつはうるさそうにしとったけど、追い払うことまではせんかった。俺らはなんとなく仲良うなった。けど、高校を卒業するっちゅう日にあいつは言ったんや。『これから先は俺に近づかんとってくれ。俺はもうすぐ死ぬやろうから』ってな」
日熊さんはうつむいていた。そのいつでも穏やかな目は、病室の床ではなく、遠い思い出を見ているようだった。どれだけ年月が経ったとしても色あせない、大切な思い出を。
「……その人、病気だったんですか」
私は聞いた。すると、日熊さんは顔を上げた。頬に笑みを浮かべる。そして、「見に行ったんやろ」と言った。何をですか、私が尋ねる前に、笑って言った。
「月森寛人や。あいつが、俺の同級で、『死ぬ』って、そう言うて本当に死んでしもうたやつや」
「月森寛人って……」
私は思わず聞き返した。
「あの、絵の?」
「そうや。この病院にも飾ってあるやろ、大きいやつが」
その大きさを示すように、両手を広げる。
「あいつが絵なんか描いとったなんて、俺は当時知りゃせんかったんじゃけん」
「そうなんですか? でも……」
「俺は、言い返せなかったんよ」
私を遮って、日熊さんは言った。胸の痛みを絞り出すような声だった。
「『近づかんとって』、そう言われて、俺は何も言えんかった。じゃけん、あいつはひとりぼっちで死んでしまったんや」
「それは……でも……」
きっと「月森寛人」さんはそうしたかったんです。あなたを悲しませたくなかったんです。
喉から出かかった言葉は、けれど私の口から出ることはなかった。
だって、それは何十年も前の話だというのに、まだ日熊さんは悲しんでいる。言い返せなかったことを悔やんでいる。そんな人に、私は一体何が言えるだろう。何も言えない。
「だからな、君らにはそういう思いをして欲しくないんや」
私が黙っていると、長い間の後、日熊さんは言った。君らって、私が問いを発する前に、急ぐように続ける。
「君と、月森くんな。彼、君が来なくなってから、毎日一人で神社に来てるんじゃ。別にお参りするわけもなしに、俺の姿を見ると逃げていくんやけど」
「月森くんが?」
それなら病院に来てくれればいいのに、一瞬そう思って、すぐにその思いをかき消した。
きっかけはどうであれ、彼に手を引かれて走ったことが原因で、私は倒れてしまったのだ。きっと責任を感じているはずだし、病室で家族と会うのも気まずいだろう。それに――私はそっと目を伏せた。
病院の白いベッドで、点滴をしている私。そんな私の姿を、彼は見たくないはずだ。なぜなら、それはいまはまだ元気な彼の未来の姿を連想させる。
それが明日か、それとも二年後かはわからない。けれど必ずやって来る自分の運命を直視なんかしたくないに決まっている。いずれ、こうして白いベッドの上で死んでいく、自分の運命など――。
「月森くん……」
私はつぶやいた。
このままじゃだめだ。彼にもう一度、会わなくちゃ。会って、私が彼と関わってしまった、身勝手な理由を告白しなければいけない。謝らなくてはいけない。
もう一度、あの参道で――
そのとき、病室のドアが開き、先生に呼ばれたお母さんが帰ってきた。その目元が赤い。らしくもなく、日熊さんに気づくのも一瞬遅かった。
「あら、どうもわざわざありがとうございます。あの、たしか神社の……」
「ああ、勝手に見舞いに来ましてすんません」
日熊さんが立ち上がる。
「どうも、そろそろお暇しようと思ってたころです」
「いえ、そんな。いま、お茶をお出ししますので……」
「いえいえいえ。僕ももう行かなあかんもんで。……それじゃ、お大事に」
深々と頭を下げて出て行く。
「どうもありがとうございました」
その背中を見送って、お母さんはため息のような息をついた。三本並んだひまわりに気づくこともなく、私を見る。その口紅も引かない口から何の言葉が出なくても、お母さんが言おうとしていることが私にはわかった。
「……あのね、お願いがあるんだけど」
だから、その言葉を聞く前に、私は口を開いた。
「なに?」
一見素っ気ないその声には、これ以上ないほどの優しさが溢れている。いつまでもその声を聞いていたい、そう思いながら、私はつぶやくように言った。
「……外出許可を取って欲しいの。一回だけ。一回だけでいいから」
「……わかった。いつがいい?」
何も聞かずに、お母さんは静かに聞いた。
「いつでも」
並んだひまわりを見ながら、私は答えた。
「夏が、終わらないうちに」
ひまわりの向こうの空は、島根らしい薄曇りだった。その空の下で、月森くんは今日も一人で参道を下るのだろうか、私は果てしない空に目をこらした。
「日熊さん、どうしてここが……?」
病室に招き入れながら言うと、日熊さんはガッハッハと笑った。
「お、食事中だったけぇ? 見舞いには、早すぎたかね」
テーブルの上のお盆を見て言う。
「いいえ、いまちょうど終わったところなので」
「そがぁか」
珍しいものを見るように、病室を見渡す。そして、
「……これ、社務所の裏に咲いたやつなんやけど、花瓶はあるかね」
「あ、花瓶ならそっちの……」
「ええ、ええ、藤川さんは病人じゃけん、寝とって。勝手にやるけぇ……」
そう言いながら、花瓶に水を入れ、ひまわりを活けようとする。しかし、
「あれ……こりゃいかんか」
お花屋さんにあるような可愛いものではなく、骨太に咲いた大輪だ。茎の切り口の直径など優に三センチはあるだろう。そんな重さの偏ったひまわりを、花瓶が支えられるはずもない。
「こりゃ参ったなあ……」
ごりごりと頭を掻く姿に、私は思わず笑い声を上げた。心がふっと軽くなる。同時に、あの通い続けた朱色の参道がとても恋しくなった。
強い太陽の光に、夏山の濃い緑。その静けさの中の千本鳥居をゆっくりと下りていく、あの感覚。
「まあ、これでええか」
ふと感傷的になってしまった私に気づかず、日熊さんは花瓶を諦め、ひまわりを窓際に立てた。ちょうど桟に嵌まった形のそれは、窓からにょきっと生えたように、揃ってベッドの方を向いた。
「……それで、具合はどうや? 元気そうじゃけえ、安心したけんど」
「はい、結構元気で」
「そがぁか。じゃ、そろそろ退院けぇ?」
「うーん、そればっかりはわかんないんですけど」
自分に言い聞かせるように言う。「そがぁか」、今度は残念そうに言って、ごぞごぞとポケットから何かを取り出す。
「これ。うちの神社のやけんど、お守りに」
きらり、光を透かす透明な勾玉が現れる。
「わあ、いいんですか? ありがとうございます」
差し出されたそれを、私は受け取った。「さまざまな災いから持ち主を守る玉」、説明にそう書かれている。
「藤川さんは、ようお揚げをお供えしてくれたけぇ」
日熊さんが笑う。
「じゃ、またお供えしにいかないと」
私も笑った。そうしてから、行けるだろうか、不安がこみ上げる。考えても仕方がない、そう思っても、不安はふとしたことで浮かび上がってきてしまう。それは隠そうとしても隠しきれるわけでもない。
「……こういうとき、何て言葉をかけるべきかね」
すると不意に、日熊さんがつぶやいた。
「俺はこの年になっても、それがようわからんのよ。無責任に励ましてもいいのか、何なのか……けど、一緒に落ちこんどっても仕方ないじゃろ?」
「……逆の立場だったら、私もわかりません」
カラフルな手紙の束を、視界の端で感じながら、私は答えた。
もし、これがサユやマー子やイッちゃんやユミ蔵だったら。私はなんて言ったらいいのかわからない。どう接していいのかわからない。だから、大親友たちにそんな負担を押しつけまいと、私は真実を告げなかったのだ。
「大昔に一度、そんな状況に陥ってな」
日熊さんはひとりごとのように言った。
「俺と同級のやつやった。何考えてるのか、ようわからんやつでな。男のくせに女みたいに髪を伸ばしとって、教室の隅っこの暗い場所で本なんかを読んどって」
聞いています、そう示すように私はうなずく。
「群れることをせんやつやった。一人がいいんじゃ、そういう雰囲気をバシバシ出しとってな。だもんで、誰もやつには寄りつかんかったんや。けど、俺はなんちゅうか、昔っからお節介なとこがあったんやろな。そいつに近寄ったんじゃ。何かと声をかける俺を、やつはうるさそうにしとったけど、追い払うことまではせんかった。俺らはなんとなく仲良うなった。けど、高校を卒業するっちゅう日にあいつは言ったんや。『これから先は俺に近づかんとってくれ。俺はもうすぐ死ぬやろうから』ってな」
日熊さんはうつむいていた。そのいつでも穏やかな目は、病室の床ではなく、遠い思い出を見ているようだった。どれだけ年月が経ったとしても色あせない、大切な思い出を。
「……その人、病気だったんですか」
私は聞いた。すると、日熊さんは顔を上げた。頬に笑みを浮かべる。そして、「見に行ったんやろ」と言った。何をですか、私が尋ねる前に、笑って言った。
「月森寛人や。あいつが、俺の同級で、『死ぬ』って、そう言うて本当に死んでしもうたやつや」
「月森寛人って……」
私は思わず聞き返した。
「あの、絵の?」
「そうや。この病院にも飾ってあるやろ、大きいやつが」
その大きさを示すように、両手を広げる。
「あいつが絵なんか描いとったなんて、俺は当時知りゃせんかったんじゃけん」
「そうなんですか? でも……」
「俺は、言い返せなかったんよ」
私を遮って、日熊さんは言った。胸の痛みを絞り出すような声だった。
「『近づかんとって』、そう言われて、俺は何も言えんかった。じゃけん、あいつはひとりぼっちで死んでしまったんや」
「それは……でも……」
きっと「月森寛人」さんはそうしたかったんです。あなたを悲しませたくなかったんです。
喉から出かかった言葉は、けれど私の口から出ることはなかった。
だって、それは何十年も前の話だというのに、まだ日熊さんは悲しんでいる。言い返せなかったことを悔やんでいる。そんな人に、私は一体何が言えるだろう。何も言えない。
「だからな、君らにはそういう思いをして欲しくないんや」
私が黙っていると、長い間の後、日熊さんは言った。君らって、私が問いを発する前に、急ぐように続ける。
「君と、月森くんな。彼、君が来なくなってから、毎日一人で神社に来てるんじゃ。別にお参りするわけもなしに、俺の姿を見ると逃げていくんやけど」
「月森くんが?」
それなら病院に来てくれればいいのに、一瞬そう思って、すぐにその思いをかき消した。
きっかけはどうであれ、彼に手を引かれて走ったことが原因で、私は倒れてしまったのだ。きっと責任を感じているはずだし、病室で家族と会うのも気まずいだろう。それに――私はそっと目を伏せた。
病院の白いベッドで、点滴をしている私。そんな私の姿を、彼は見たくないはずだ。なぜなら、それはいまはまだ元気な彼の未来の姿を連想させる。
それが明日か、それとも二年後かはわからない。けれど必ずやって来る自分の運命を直視なんかしたくないに決まっている。いずれ、こうして白いベッドの上で死んでいく、自分の運命など――。
「月森くん……」
私はつぶやいた。
このままじゃだめだ。彼にもう一度、会わなくちゃ。会って、私が彼と関わってしまった、身勝手な理由を告白しなければいけない。謝らなくてはいけない。
もう一度、あの参道で――
そのとき、病室のドアが開き、先生に呼ばれたお母さんが帰ってきた。その目元が赤い。らしくもなく、日熊さんに気づくのも一瞬遅かった。
「あら、どうもわざわざありがとうございます。あの、たしか神社の……」
「ああ、勝手に見舞いに来ましてすんません」
日熊さんが立ち上がる。
「どうも、そろそろお暇しようと思ってたころです」
「いえ、そんな。いま、お茶をお出ししますので……」
「いえいえいえ。僕ももう行かなあかんもんで。……それじゃ、お大事に」
深々と頭を下げて出て行く。
「どうもありがとうございました」
その背中を見送って、お母さんはため息のような息をついた。三本並んだひまわりに気づくこともなく、私を見る。その口紅も引かない口から何の言葉が出なくても、お母さんが言おうとしていることが私にはわかった。
「……あのね、お願いがあるんだけど」
だから、その言葉を聞く前に、私は口を開いた。
「なに?」
一見素っ気ないその声には、これ以上ないほどの優しさが溢れている。いつまでもその声を聞いていたい、そう思いながら、私はつぶやくように言った。
「……外出許可を取って欲しいの。一回だけ。一回だけでいいから」
「……わかった。いつがいい?」
何も聞かずに、お母さんは静かに聞いた。
「いつでも」
並んだひまわりを見ながら、私は答えた。
「夏が、終わらないうちに」
ひまわりの向こうの空は、島根らしい薄曇りだった。その空の下で、月森くんは今日も一人で参道を下るのだろうか、私は果てしない空に目をこらした。