嘘は世界を軽くする
「……久しぶり」

 その姿を想像もしていなかったというと嘘になる。けれど、僕はそれが現実だというのが信じられなくて、しばらく呆けたように彼女を見つめた。

「そんなに見られると、恥ずかしい……です」

 隠れるように、日傘を傾ける。そのまま、

「ちょっと日に焼けましたね?」

 笑うように言う。

「あ、うん……ちょっとだけ」

 僕が答えると、彼女は日傘を元に戻した。「お参り、しますか?」、と尋ねる。うん、僕がうなずくと少し驚いたような顔をして、それでもゆっくりと手水場へ向かった。傘を置き、柄杓で手を清める。

 何だ、いつも通り元気じゃないか。ほとんどそう思いかけていた僕は、その白い腕に残る点滴の痕を見てぎくりとした。ごめん、思わずつぶやく。

「え? 何ですか?」

 振り向いた彼女に、

「僕がその、勘違いして、走らせて、それで……」

 たどたどしく言うと、「いいんです」、彼女は何でもないことのようにふわりと笑った。それから、ふと真面目な表情をする。

「私が何もいわなかったのが悪いんです。月森くんは何も知らなかったから……」
「いや、でも僕も気づくべきで――」

「月森くん」
 すると、彼女は僕を遮った。

「私、今日は謝りに来たんです」
「え? 謝りって……」

 僕は聞き返して、それから慌てて言った。

「僕も、僕もその、藤川さんに謝ることが……」
「私に?」

 彼女は不思議そうな顔をした。けれど、小さく首を振ると、本殿を見た。

「でも……先にお参りしてからにしませんか? お参りして、新しい自分に生まれ変わってから」
「……そうやね」

 僕もうなずくと、急いで手を洗った。ハンカチなんか持ち歩いていない僕に、彼女は自分のものを貸してくれようとしたが、それを断ってズボンで拭った。

「今日も暑いですね」
 日傘の下で、彼女が言う。

「夏も終わりやし」
 僕が言うと、

「そういえば、夏休みっていつまでですか?」
「えっと、今日まで……」

「ええ? 宿題、終わってるんですか?」
 あのいたずらっぽい笑みで、彼女。

「まあ、徹夜すれば終わる……かな?」
「たしかに、月森くんって溜め込みそうなタイプですよね」

「藤川……さんは? 宿題」
「私は……残念でした。先にやっちゃうタイプです」

「うん。っぽい」
「でしょう? よく言われます」

 くすくすと笑う彼女に、僕は何だか安心した。

 腕の点滴痕は痛々しいけれど、こんなに元気なんだし、きっと「心臓が悪い」というだけで、生きるとか死ぬとかそういう話ではないんだろう。というか、そうであって欲しい。『生きられますように』なんて短冊が、彼女の書いたものじゃありませんように。

 僕たちは本殿の正面に立った。

「あ、あの笹飾り……」
 そのとき、彼女がつぶやいた。

「そういえば、お盆まででしたね……」
「うん。大分前になくなってた」

 いまはない笹飾りを見上げるように、僕も視線を上げた。と、くすくすと笑い声が聞こえて、僕は隣の彼女を見る。

「ごめんなさい。ちょっと思い出しちゃって」
「……僕がずっこけたこと?」

 少し顔をしかめてやると、彼女はそれを見てさらに笑った。

「ずっこけたって、あはは……いえ、あれも私が悪いんですけど、でもなんて言うか、転んじゃうとは思わなくて」
「びっくりしたんや、誰もいないと思ったから……」

「はい、だから悪いのは私ですって」
 そう言いながらも、笑うのをやめない。まったく、涙が出るまで笑うことないのに。

 すると、ふと彼女が小さくつぶやいた。

「……でも、あのとき私、神さまが出会わせてくれたのかなって思ったんです」
「え?」

 どういう意味、そう聞く間もなく、彼女は神前の縄に手を伸ばすと勢いよく振った。ガランガランガラン、大きな音が頭上から降る。

「…………」

 何事かを真剣に祈る。自分を変えるために祈る、そう思っているのだろうか。

 ――嘘をついたことを、ちゃんと謝れる自分になれますように。
 いつになく真剣に僕も祈った。いままでの自分を変えたい。そう思ったのだ。

 祈りを終えると、僕たちはしばらく黙った。

 お互い、謝りたいことがある。しかし、どこでそれを話すべきか、迷っていたのだ。けれどどんなに考えても、うってつけの場所は一つしかなかった。

「……行きましょうか」

 彼女がそう言った。だから、「行こう」と僕もうなずいた。

 僕らが向かった先は、もちろんあの参道だった。あの朱色の千本鳥居の中。お互いの秘密を打ち明けるのに、そこはぴったりの場所に思えた。

 いつものように、僕が先に歩いた。石段に足をかける直前、「振り向いちゃダメですよ」、彼女が言った。

「振り向かないよ」
 僕は少し笑った。

 来る日も来る日も、この参道を下りる間、僕は決して後ろを振り向かなかった。

 『あ、あんなところにUFOが!』、あのときと同じ彼女の声を想像しても、想像の中で知恵をつけた彼女が、『あ、日熊さんが来ました!』だなんて言って引っかけようとしても、僕は決して振り向かなかった。

 それは、僕なりの願掛けのようなものだった。

 振り向かなければ、願いは叶う。あの蒼い短冊の主は彼女ではなく、彼女の心臓は平均的な寿命を終えるまで動き続け、その隣にいるのが僕ではないとしても、幸せそうな顔をこの先ずっと見ることができる。

 それは、以前の僕が疎んでいたような「平凡な人生」ではなかった。

 彼女がいる。この世界で生きている。いまはそれが約束されるだけで幸せに思えた。

 それは特別な才能のある人生と同じ、いや、どっちが幸せかなんて比べようのない人生だ。僕には与えられた時間がある。彼女とその時間を共有できる。それがいまの僕にとっては何より「特別」で、かけがえのないことだと信じることができた。

「月森くん……」
 そのとき、ぽつり、彼女が僕の名を呼んだ。

「本当は私、合わせる顔なんてないんです。……初めから月森くんを利用していたから」
「利用してた? 叔父さんのことやろ?」

 振り向かないまま、僕は聞き返す。
 参道は長く、先は見えない。話す時間はたっぷりとある。

「……それもあります」
 ややあって、彼女が答えた。

 コツン、日傘をつく音が、以前よりもゆっくりだ。

 体調が悪いのだろうか? 僕もそれに合わせて、ほとんど立ち止まるようにしながら、石段を下りた。どんなにゆっくり下りても足りないほどの時間が、いまの僕たちには必要だった。

「私があの絵に感動して、月森くんを画家の『月森寛人』だなんて勝手な勘違いをしたのは本当です。それも謝ります。ごめんなさい」

 でもそれだけじゃないんです、か細い声で、彼女は打ち明けた。震えるような気配が、その声から伝わった。

 どうしてそんなに悲しそうに言うんだろう、知りたくないことを知ってしまうような予感に、僕は怯えた。

 彼女の嘘よりも、僕の嘘のほうが重大に違いない。だから、先に僕が打ち明けた方が良かったんじゃないか、ためらいながらもそう思う。「不治の病」なんて、嘘なんだ、そう叫んでしまいたくなる。

 けれど、彼女は僕のために話をやめようとはしなかった。

「私……」
 思い切ったように、彼女は口を開いた。

「私、本当は友達なんてつくるつもりはなかったんです。東京を離れたとき、そういうことはしないって決めたんです」

 聞いてるよ、そう合図するためだけに、うなずく。彼女は息を整えるような間をとって、続けた。

「私はそういうことしちゃいけない人間なんです。私に関わる人は悲しい思いをしなくちゃいけないから、だからそう決めていて……」

 ほんの少しの間。
 それから、彼女は僕の嘘に言及した。

「だけど、私と出会った月森くんは、『二年で死ぬんだ』って、そう言いました。それを聞いたとき――『月森寛人』さんのことを別にしても、私はこれは神さまが引き合わせてくれた人なのかもって思ったんです。だから、私、月森くんと関わろうって思ったんです。だから、私……」

 蝉の声の中に、彼女の声が消えていく。その姿も透明になり、消えていくような気がして僕はどきりとした。

 けれど、ここで振り向くわけにはいかない。
 そう思い、息を殺してじっと待つ。

 コツン、長すぎる間の後、やっと彼女の存在を知らせる音が僕の耳に響く。僕はほっとして――そうしたのもつかの間、彼女の言葉の意味を考えた。

 あのとき僕が死ぬと言ったからこそ、彼女は僕と関わった――。それは一体、どういう意味だろう。僕のついたバカな嘘に、彼女は何を重ねていた? そんな不安定なものに、どんな信頼を寄せていた?

 その先を聞きたくない。

 僕は不意にそう思った。聞いちゃいけない。けれど、彼女はためらわなかった。

「私、死んじゃうんです」

 これだけは明るい調子で言おうと決めていた、とでもいうように、彼女は言った。

「私、死ぬんです。だから、友達はつくらないって決めたんです。でも、月森くんは……月森くんも死んじゃうって言ったから、だから友達になろうって思ったんです。どうせ死んじゃう人だから、私が死んでも悲しくないだろうって思ったんです。だけど、ごめんなさい、それは間違ってました。私が死んじゃったら、きっと月森くんも悲しいんです。だって……だって、月森くんが死んじゃったら、私はすごく悲しいから!」

 最後は叫ぶような声だった。そうしながら、彼女は泣いていた。

 いつも笑っていたはずのその目からは大粒の涙がこぼれ、それは頬を伝ってボロボロと地面に落ちていた。真っ白なワンピースの裾が風に揺れ、露わになった白いふくらはぎは、可哀想なほど細かった。いつものように片方の耳の下で束ねられた黒い髪は、出会ってからの月日の分だけ――ほんの少しだけ伸びているような気がした。それから、それから――――。

 彼女はいなくなってしまう。だから、いまこの瞬間、少しでもその姿を目に焼きつけなければいけない。

 必死になって彼女の細部まで目をこらし――僕は気づいた。

 僕は振り向いていた。

 イザナギがイザナミを見てしまったように、ギリシャ神話で彼が妻を振り返ってしまったように、いつのまにか僕も彼女を振り向いていた。

 その瞬間、僕の願いは風に散った。
 願いが、僕がこの参道に掛けた願いが儚くも失われる。

 彼女は死んでしまう。消えてしまう。僕の前からいなくなってしまう。

 背中を流れる汗が冷たい。足元から世界が崩れ去っていくようだ。呼吸を止めた僕に、彼女は泣きながら微笑もうとした。

「……振り向いちゃダメって言ったのに」

 細い指が後れ毛をかき上げた。頬の涙をごしごしと拭った。

「泣いてる顔なんて、覚えてて欲しくないです」

 微笑みを浮かべようとする口元が歪んでいる。どれだけ堪えようとしても、涙はこぼれ、頬を濡らし続けた。

 遠くで蝉が鳴いている。心なしか冷たい風が梢を揺らす。無限に続くものなど何もない。夏は、もう終わってしまうのだった。
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