嘘は世界を軽くする
終章
あの夏と変わらない蝉の声。
変わらない島根の曇り空に、変わらない緑濃い山。その深緑の中を、一筋の朱色が縫うように頂上へ向かっている。
太皷谷稲成神社の千本鳥居。十年前と変わらない、その厳かな佇まい。
「月森さん、ホントに車で上まで行かなくていいんですか?」
大学の後輩、運転席の窓から顔を出した横山が、呆れたように言う。朱色の参道を見上げる。
「これ上るの、ヤバい大変そうですよ? しかもこの暑い中、そんなでっかい荷物を背負って……」
顔をしかめ、僕が両腕に抱えた道具に目をやる。
「いや、だから大丈夫やけん。何度も上ったことあるし……」
僕が言うと、
「嘘だあ、そんな体力あるように見えませんけど」
大げさに、横山。
「いや学生時代、柔道部だったお前が体力ありすぎるだけだから」
「それはまあ……そうかもしれませんけど」
褒められたと思ったのか、横山が相好を崩す。
「だろ? じゃ、帰りもここに迎えに来てくれればいいから。よろしくな」
さっさと横山に片手を上げ、歩き出す。
「あ、月森さん」
すると、横山が声を上げた。
飛行機が遅れたせいで、約束の時刻はとっくに過ぎている。何だよ、面倒くさそうに聞き返すと、
「千本鳥居って言いますけど、これ、ホントに千本もあるんですか?」
「……そうやね」
古い記憶のほころびをつくような問いに、僕は思わず息をついた。
少年だった頃のあの夏の日。初めてこの参道を見上げた僕も、たしかそんなことを考えたんじゃなかっただろうか。
「月森さん?」
それきり口を閉じた僕を、不審そうに横山が呼ぶ。
いや、僕は一つ首を振った。
道のりはまだ長い。こんなところで立ち止まっていては、参道を上りきることすらできやしない。
「……実は、僕も数えたことがないんや」
僕は言うと、首をかしげる彼を残して、参道の入り口に立った。そのどこまでも続くような石段を見上げる。横山の運転する車が、Uターンして去って行く。
ざああ、梢を揺らし、山の涼しい風が吹いた。先の見えない、曲がりくねった朱色が永遠を刻むように続く。そこは以前とは寸分も変わりない景色で僕を迎えてくれた。
「……さて、行くか」
オヤジ臭くつぶやくと、苔むした石段を上り始める。少しも上らないうちに汗が出る。息が上がる。運動不足がもろにたたってるな、酸欠の頭で考える。あの頃はもっと足が軽かった。肩で息なんかしなかったはずだ。
もうそろそろ頂上だろう、カーブを抜ける度にそう思い、その期待は裏切られた。こんなに長い石段を、よくも毎日上ったものだと感心する。いまじゃとてもできないことだ。
それでも、辛抱強く足を運ぶと、唐突に視界が開けた。薄い雲をなおも貫く、夏の陽光が白くまぶしい。
本殿だ。十年ぶりとは思えないその景色を、僕は立ち尽くしたまま、しばし眺めた。
左手に手水場、右に授与所。その隣は社務所と駐車場があって、向かい側には御供物台を備えた本殿がある。そして、その本殿には――。
「月森くんかね? いやあ、大人になったなあ」
相変わらずの大声が聞こえ、振り向くと、丸顔に笑みを浮かべた男性がやってくるのが見えた。年のせいか、少し痩せただろうか。人のいい顔にも、相応に皺が増えている。
「いきなり電話が来るもんだから、驚いた。いや、ずっと気になっとったからなあ」
「日熊さん、お世話になります」
僕は、昔は苦手だったその人に頭を下げた。
「神社の絵を描くのを、快く承知していただいて」
「いやいや、むしろここの宣伝になるくらいやからな。構わんと、いくらでも使うてや」
日熊さんは笑うと、先に立って社務所へ向かう。
「お邪魔します」
あのとき渋々足を踏み入れた場所は、年月なりに古びてはいたが、どこにも変化は見られなかった。机も、パイプ椅子もあのときのまま、きっちりと揃えられており、まるでたったいま、彼女が立ち去ったかのようだった。
「はいはい、荷物はこっちの物置にな。開けといたから」
「ありがとうございます」
お礼を言って、荷物を降ろす。日熊さんは、そんな僕の姿をまじまじと見た。
「しかし、すごい荷物やなあ。その背負ってたのは何や?」
「あ、これはイーゼルで……」
僕はその場に両手の荷物を置かせてもらうと、木の枠組みを床に立てた。
「こうして、ここにキャンバスを置いて、絵を描くんです」
「ほう。……キャンバスってのは、これか」
「はい、この風呂敷の中に……」
布の結び目を解く。すると、中から真っ白なキャンバスが現れた。
「これに絵を描くんか? えらいでかいなあ……」
自分の背丈ほどあるキャンバスを、驚いたように見上げる日熊さんに、僕は笑った。それから、少し真面目に言い添える。
「まあ、ある程度大きさがあったほうがいいんです。……卒業制作なので」
「そうか、もう卒業か」
感慨深げに、日熊さんがつぶやいた。
「人よりは大分、遅いですけどね」
自嘲気味に僕は言って、口を閉じた。
変わらない島根の曇り空に、変わらない緑濃い山。その深緑の中を、一筋の朱色が縫うように頂上へ向かっている。
太皷谷稲成神社の千本鳥居。十年前と変わらない、その厳かな佇まい。
「月森さん、ホントに車で上まで行かなくていいんですか?」
大学の後輩、運転席の窓から顔を出した横山が、呆れたように言う。朱色の参道を見上げる。
「これ上るの、ヤバい大変そうですよ? しかもこの暑い中、そんなでっかい荷物を背負って……」
顔をしかめ、僕が両腕に抱えた道具に目をやる。
「いや、だから大丈夫やけん。何度も上ったことあるし……」
僕が言うと、
「嘘だあ、そんな体力あるように見えませんけど」
大げさに、横山。
「いや学生時代、柔道部だったお前が体力ありすぎるだけだから」
「それはまあ……そうかもしれませんけど」
褒められたと思ったのか、横山が相好を崩す。
「だろ? じゃ、帰りもここに迎えに来てくれればいいから。よろしくな」
さっさと横山に片手を上げ、歩き出す。
「あ、月森さん」
すると、横山が声を上げた。
飛行機が遅れたせいで、約束の時刻はとっくに過ぎている。何だよ、面倒くさそうに聞き返すと、
「千本鳥居って言いますけど、これ、ホントに千本もあるんですか?」
「……そうやね」
古い記憶のほころびをつくような問いに、僕は思わず息をついた。
少年だった頃のあの夏の日。初めてこの参道を見上げた僕も、たしかそんなことを考えたんじゃなかっただろうか。
「月森さん?」
それきり口を閉じた僕を、不審そうに横山が呼ぶ。
いや、僕は一つ首を振った。
道のりはまだ長い。こんなところで立ち止まっていては、参道を上りきることすらできやしない。
「……実は、僕も数えたことがないんや」
僕は言うと、首をかしげる彼を残して、参道の入り口に立った。そのどこまでも続くような石段を見上げる。横山の運転する車が、Uターンして去って行く。
ざああ、梢を揺らし、山の涼しい風が吹いた。先の見えない、曲がりくねった朱色が永遠を刻むように続く。そこは以前とは寸分も変わりない景色で僕を迎えてくれた。
「……さて、行くか」
オヤジ臭くつぶやくと、苔むした石段を上り始める。少しも上らないうちに汗が出る。息が上がる。運動不足がもろにたたってるな、酸欠の頭で考える。あの頃はもっと足が軽かった。肩で息なんかしなかったはずだ。
もうそろそろ頂上だろう、カーブを抜ける度にそう思い、その期待は裏切られた。こんなに長い石段を、よくも毎日上ったものだと感心する。いまじゃとてもできないことだ。
それでも、辛抱強く足を運ぶと、唐突に視界が開けた。薄い雲をなおも貫く、夏の陽光が白くまぶしい。
本殿だ。十年ぶりとは思えないその景色を、僕は立ち尽くしたまま、しばし眺めた。
左手に手水場、右に授与所。その隣は社務所と駐車場があって、向かい側には御供物台を備えた本殿がある。そして、その本殿には――。
「月森くんかね? いやあ、大人になったなあ」
相変わらずの大声が聞こえ、振り向くと、丸顔に笑みを浮かべた男性がやってくるのが見えた。年のせいか、少し痩せただろうか。人のいい顔にも、相応に皺が増えている。
「いきなり電話が来るもんだから、驚いた。いや、ずっと気になっとったからなあ」
「日熊さん、お世話になります」
僕は、昔は苦手だったその人に頭を下げた。
「神社の絵を描くのを、快く承知していただいて」
「いやいや、むしろここの宣伝になるくらいやからな。構わんと、いくらでも使うてや」
日熊さんは笑うと、先に立って社務所へ向かう。
「お邪魔します」
あのとき渋々足を踏み入れた場所は、年月なりに古びてはいたが、どこにも変化は見られなかった。机も、パイプ椅子もあのときのまま、きっちりと揃えられており、まるでたったいま、彼女が立ち去ったかのようだった。
「はいはい、荷物はこっちの物置にな。開けといたから」
「ありがとうございます」
お礼を言って、荷物を降ろす。日熊さんは、そんな僕の姿をまじまじと見た。
「しかし、すごい荷物やなあ。その背負ってたのは何や?」
「あ、これはイーゼルで……」
僕はその場に両手の荷物を置かせてもらうと、木の枠組みを床に立てた。
「こうして、ここにキャンバスを置いて、絵を描くんです」
「ほう。……キャンバスってのは、これか」
「はい、この風呂敷の中に……」
布の結び目を解く。すると、中から真っ白なキャンバスが現れた。
「これに絵を描くんか? えらいでかいなあ……」
自分の背丈ほどあるキャンバスを、驚いたように見上げる日熊さんに、僕は笑った。それから、少し真面目に言い添える。
「まあ、ある程度大きさがあったほうがいいんです。……卒業制作なので」
「そうか、もう卒業か」
感慨深げに、日熊さんがつぶやいた。
「人よりは大分、遅いですけどね」
自嘲気味に僕は言って、口を閉じた。