嘘は世界を軽くする
絵の基礎もわからなかった僕は、美大に入るまでに何年もの時間を費やした。バイトと勉強を両立させるのは容易ではなかったし、家族からも反対された。けれど、僕は何と言われようと諦めなかった。
なぜなら、昔と違って、僕には描きたいものがあった。生涯のテーマにしたいと思える風景があった。そして、今日、ようやくそれを描くことのできる日がやってきたのだ。
「卒業したら、どがぁする? 絵描きになれるのか?」
日熊さんが何気なく聞く。
「さあ、それは……絵だけで食ってけるような才能はないので」
僕は殊勝に頭を掻いた。
「一応、来年から中学で美術を教えることが決まってるんです。だから、何とかこれを仕上げないと」
「中学校の先生か」
日熊さんはうなずいた。
「そがぁことなら、頑張らにゃいかんな」
「はい」
僕はうなずいた。日熊さんもうなずく。
変わらない風景の中に、年を取った日熊さんと、大人になった僕がいる。
それは懐かしさというよりも、奇妙な感覚を僕に与えた。風景の中から、あるべきものが消えている。それは間違い探しだというのなら、簡単すぎるものだった。
「……お茶でも入れよか」
沈黙を破るように、日熊さんが言った。
「暑いときには熱いお茶がいいらしいけぇ、熱い茶もあるけど、どうする?」
あのときとまったく同じことを聞く。こうなると、いよいよ、いなくなってしまった人のことが、思い出されてしまう。
「……熱いお茶で」
これ以上何も変えたくない、そんな一心で僕は答える。しかし、すぐに「いえ」と自分の言葉を否定した。答えを待つ日熊さんを見る。
「先に、お参りしてきてもいいですか。そうしたら……」
その先の言葉は続かなかった。けれど、日熊さんは何もかもわかっているというような目でうなずいた。
「そうやね、先にいきんさい。……祈り短冊も書くとええ」
「……はい」
僕は小さくうなずくと、社務所の戸を開けた。
真夏の真っ昼間。
相変わらず、境内に人影はなく、静けさだけが際立っている。
十年前、本当にあれは十年も前だったんだろうか、そんなことをぼんやりと考えていると、
――月森くん。
社務所の影から、神狐像の後ろから、手水場から、僕を呼ぶ声がいまにも聞こえてきそうな錯覚に陥る。
――お参りするなら、先に手を清めないと。
ときに大人びたような表情が、
――はい、これ月森くんのお揚げ。
ときに無邪気すぎる笑顔が、脳裏にちらつく。
初めから、好きだったんだ。
過去の感情をひもとくように、僕は思った。
白い日傘を差し、白いワンピース姿の彼女が目の前に現れた瞬間から、僕は彼女に惹かれていた。好きだと思っていた。
けれど、それをいつまでも認めずに、ぐずぐずと理由をつけて遠回りをし続けた。その間にも、彼女の貴重な時間は失われているのだ、ということに気づきもせず。
僕は手水場の冷たい水で手を清めると、少し考えてから、財布から小銭を出し、お揚げを取った。それを、本殿の御供物台に供える。もちろん、そうする前には付属しているマッチでろうそくに火をつけることも忘れない。
それから僕は、ガランガラン、大きな音で鈴を鳴らした。二礼二拍手一礼。彼女を見て覚えた動作で、静かに祈る。祈ると言っても、何か願いをつぶやいたわけではない。黙って目を閉じただけだ。
『神さまは願い事を叶えてはくれない。祈ることによって、自分自身が変わるのだ』、あのときはピンとこなかった日熊さんの言葉。それは、何となくではあるけれど、いまならわかる気がした。
神さまに祈るだけじゃ何も変わらない。けれど、「祈る」という行動をとり続けることによって、自分自身が変わっていく。つまり、行動を起こさなければ、何も変わらない。
日熊さんの言いたかったことは、こういうことじゃないだろうか。
昔の僕が、もっと早くにそう気づいていたなら――いまの僕はそう思う。頭の中で考えているだけではなく、行動していれば。そうすればきっと、彼女との時間を無駄にせずに済んだのに……。
すると、そのときサラサラと頭上で乾いた音がした。見上げると、笹飾りが揺れている。
「そうだ、短冊……」
僕はつぶやくと、短冊の置かれた台に向かった。
七夕から八月のお盆の時期まで飾られるこの短冊は、精霊祭の短冊。自分の願いを叶えるためではなく、先祖や亡くなってしまった人への想いを伝えるための手段。
あのときと違い、そこにはまだ白紙の色紙がたくさん積まれていた。
蒼い短冊はあるだろうか、僕はさまざまな色の中から、あの日の色を探す。突き抜けるような明るい空の色ではなく、少し翳りのある「蒼」と呼ぶべき色の短冊。
彼女はあの色をどんな気持ちで選んだのだろう。一枚一枚めくっていると、
「これだ……」
指が止まり、僕はその色を選び出す。これも用意されているボールペンを手に取る。何を書こう、僕の手は文字を知らないかのようにそこでピタリと止まった。
「藤川さんへ」――そう書き始めるべきだろうか。それとも、あの葬儀のときに読まれた手紙の中で、彼女がそう言ってくれたように、「久しぶり」、まずそう声を掛けるべきだろうか。
――あなたを待っています。
あのとき、あの雪のちらつく葬儀の日。
棺に収まった彼女は、いつもよりも小さく縮んで見えた。周りには彼女が好きだったというかすみ草がたくさん飾られていて、僕は彼女の好きな花すら知る時間がなかったという事実に、呆然としていた。
僕と彼女の時間は、それほど少なかった。
それでも、僕はあれから毎日彼女の病室に通ったし、彼女が「大親友」と呼ぶ四人の騒がしい女の子たちにも会った。彼女たちが僕のことを「ユッピの彼氏」と呼ぶのに閉口して、彼女と二人で赤くなった。
大親友との仲を取り戻せたのは、僕のおかげだと彼女は何度も言ったけれど、僕はただ彼女が強くて優しい人だったからだと思っている。
そうじゃなきゃ、病気を知らせないで東京を離れるだなんてできないと思うし、そうすることが却って友達にとって辛い仕打ちだと気づいたときに、その間違いを正すことなんてできない。
彼女は、他人の気持ちを思いやれる人だった。僕とは正反対の生き方をしていた。「特別な才能」がないからとひねくれ、「不治の病」だと嘘をついた、僕なんかとは。
短冊の蒼さに息をつき、僕はもう一度笹飾りを見上げた。
『大人になるまで、生きられますように』。すべての始まりだったあの短冊は、彼女が書いたものだった。僕はそれに自分のイニシャルを書き足し、バカな嘘をつくりあげた。彼女はその嘘を信じた。そして、いまも空でその嘘を信じ続けている。すぐに行くはずだった僕を待ち続けている。
そう、「不治の病」であるという僕の嘘を、僕は最後まで彼女に打ち明けることはしなかったのだ。
それはなぜか。
「僕は死ぬ」、僕がそう嘘をついたからこそ、彼女は僕に心を開くことができた。
これ以上自分の死に悲しむ人を増やさないため、友達とも連絡を絶ち、新たな友達もつくらない。そう決意した彼女は、とても孤独だっただろう。寂しかったはずだ、辛かったはずだ。
けれど、そこに彼女と同じく「すぐに死んでしまう」僕が現れた。「神さまが出会わせてくれたのかと思った」、彼女がそう言ったように、僕の嘘は、彼女にとっては希望に他ならなかった。
だから、僕たちはあの短い夏を一緒に過ごすことができた。
それが理由だ。
僕は、僕の嘘を――彼女にとっての希望を奪いたくなかった。僕が僕のためについた嘘を、僕はそのとき彼女のための嘘に変えたのだ。
それは、自分のことだけしか考えていなかった僕が、初めてほかの誰かのために成し遂げたことだった。
「……人間の魂の重さって、知っとるか?」
僕は空に向かって語りかけた。応えるように、風が吹く。笹が揺れる。
彼女はそこにいる。その見えない存在を信じて、僕は言葉を続ける。
「人間が死ぬその瞬間、魂の分だけ体重が軽くなるんやって。それが魂の重さ。どれくらいだと思う? ……正解は、21g。たったそれだけや。君が死んで、この世界は21gだけ、軽くなったんや」
僕はそう言って、答えを待った。しかし、空は白いばかりで、彼女の声は聞こえない。
「たったそれだけなんや」
僕は空に繰り返した。
「それなのに……」
なぜこんなにも重いのだろう。彼女の存在は、思い出は、感情は、僕の胸をいつまでも重たく沈ませるのだろう。
言葉にならない感情を堪えていると、代わりに涙が溢れてきた。それを、慌てて拭う。
高校時代のひねくれた僕がこの姿を見れば、いい大人が何のアピールだと、鼻でせせら笑ったことだろう。
けれど、もちろん、これは僕のアピールなんかじゃなかった。
これは、彼女のための涙。「僕」のことしか考えられなかった僕が、他人のために流す涙。いまも僕の嘘を信じ、現世と黄泉を繋ぐ道で待っていてくれている、彼女のための感情。
「……僕も必ず行くから」
僕は言った。
目を閉じると、あの参道の風景がまぶたに浮かぶ。蝉の声、風の音。連綿と続く朱色に佇む、後ろ姿の彼女。いまはどんなに声を掛けても、彼女は決して振り向かない。
その後ろ姿に届くように、大きな声で呼びかける。
「必ず行く。だから、もう少しそこで待っててくれ」
彼女はやっぱり振り向かず、僕に応えることもしなかった。
けれど、僕は知っている。僕の声は彼女に届いているのだということを。そして時が来れば、彼女はあの無邪気な微笑みで、僕を振り向いてくれることを。
「待っててくれよな」
僕は叫んだ。
その僕の隣を、あの白いワンピースを揺らした風だけが、微笑むように通り過ぎた。
【マイナス21gの世界――完】
なぜなら、昔と違って、僕には描きたいものがあった。生涯のテーマにしたいと思える風景があった。そして、今日、ようやくそれを描くことのできる日がやってきたのだ。
「卒業したら、どがぁする? 絵描きになれるのか?」
日熊さんが何気なく聞く。
「さあ、それは……絵だけで食ってけるような才能はないので」
僕は殊勝に頭を掻いた。
「一応、来年から中学で美術を教えることが決まってるんです。だから、何とかこれを仕上げないと」
「中学校の先生か」
日熊さんはうなずいた。
「そがぁことなら、頑張らにゃいかんな」
「はい」
僕はうなずいた。日熊さんもうなずく。
変わらない風景の中に、年を取った日熊さんと、大人になった僕がいる。
それは懐かしさというよりも、奇妙な感覚を僕に与えた。風景の中から、あるべきものが消えている。それは間違い探しだというのなら、簡単すぎるものだった。
「……お茶でも入れよか」
沈黙を破るように、日熊さんが言った。
「暑いときには熱いお茶がいいらしいけぇ、熱い茶もあるけど、どうする?」
あのときとまったく同じことを聞く。こうなると、いよいよ、いなくなってしまった人のことが、思い出されてしまう。
「……熱いお茶で」
これ以上何も変えたくない、そんな一心で僕は答える。しかし、すぐに「いえ」と自分の言葉を否定した。答えを待つ日熊さんを見る。
「先に、お参りしてきてもいいですか。そうしたら……」
その先の言葉は続かなかった。けれど、日熊さんは何もかもわかっているというような目でうなずいた。
「そうやね、先にいきんさい。……祈り短冊も書くとええ」
「……はい」
僕は小さくうなずくと、社務所の戸を開けた。
真夏の真っ昼間。
相変わらず、境内に人影はなく、静けさだけが際立っている。
十年前、本当にあれは十年も前だったんだろうか、そんなことをぼんやりと考えていると、
――月森くん。
社務所の影から、神狐像の後ろから、手水場から、僕を呼ぶ声がいまにも聞こえてきそうな錯覚に陥る。
――お参りするなら、先に手を清めないと。
ときに大人びたような表情が、
――はい、これ月森くんのお揚げ。
ときに無邪気すぎる笑顔が、脳裏にちらつく。
初めから、好きだったんだ。
過去の感情をひもとくように、僕は思った。
白い日傘を差し、白いワンピース姿の彼女が目の前に現れた瞬間から、僕は彼女に惹かれていた。好きだと思っていた。
けれど、それをいつまでも認めずに、ぐずぐずと理由をつけて遠回りをし続けた。その間にも、彼女の貴重な時間は失われているのだ、ということに気づきもせず。
僕は手水場の冷たい水で手を清めると、少し考えてから、財布から小銭を出し、お揚げを取った。それを、本殿の御供物台に供える。もちろん、そうする前には付属しているマッチでろうそくに火をつけることも忘れない。
それから僕は、ガランガラン、大きな音で鈴を鳴らした。二礼二拍手一礼。彼女を見て覚えた動作で、静かに祈る。祈ると言っても、何か願いをつぶやいたわけではない。黙って目を閉じただけだ。
『神さまは願い事を叶えてはくれない。祈ることによって、自分自身が変わるのだ』、あのときはピンとこなかった日熊さんの言葉。それは、何となくではあるけれど、いまならわかる気がした。
神さまに祈るだけじゃ何も変わらない。けれど、「祈る」という行動をとり続けることによって、自分自身が変わっていく。つまり、行動を起こさなければ、何も変わらない。
日熊さんの言いたかったことは、こういうことじゃないだろうか。
昔の僕が、もっと早くにそう気づいていたなら――いまの僕はそう思う。頭の中で考えているだけではなく、行動していれば。そうすればきっと、彼女との時間を無駄にせずに済んだのに……。
すると、そのときサラサラと頭上で乾いた音がした。見上げると、笹飾りが揺れている。
「そうだ、短冊……」
僕はつぶやくと、短冊の置かれた台に向かった。
七夕から八月のお盆の時期まで飾られるこの短冊は、精霊祭の短冊。自分の願いを叶えるためではなく、先祖や亡くなってしまった人への想いを伝えるための手段。
あのときと違い、そこにはまだ白紙の色紙がたくさん積まれていた。
蒼い短冊はあるだろうか、僕はさまざまな色の中から、あの日の色を探す。突き抜けるような明るい空の色ではなく、少し翳りのある「蒼」と呼ぶべき色の短冊。
彼女はあの色をどんな気持ちで選んだのだろう。一枚一枚めくっていると、
「これだ……」
指が止まり、僕はその色を選び出す。これも用意されているボールペンを手に取る。何を書こう、僕の手は文字を知らないかのようにそこでピタリと止まった。
「藤川さんへ」――そう書き始めるべきだろうか。それとも、あの葬儀のときに読まれた手紙の中で、彼女がそう言ってくれたように、「久しぶり」、まずそう声を掛けるべきだろうか。
――あなたを待っています。
あのとき、あの雪のちらつく葬儀の日。
棺に収まった彼女は、いつもよりも小さく縮んで見えた。周りには彼女が好きだったというかすみ草がたくさん飾られていて、僕は彼女の好きな花すら知る時間がなかったという事実に、呆然としていた。
僕と彼女の時間は、それほど少なかった。
それでも、僕はあれから毎日彼女の病室に通ったし、彼女が「大親友」と呼ぶ四人の騒がしい女の子たちにも会った。彼女たちが僕のことを「ユッピの彼氏」と呼ぶのに閉口して、彼女と二人で赤くなった。
大親友との仲を取り戻せたのは、僕のおかげだと彼女は何度も言ったけれど、僕はただ彼女が強くて優しい人だったからだと思っている。
そうじゃなきゃ、病気を知らせないで東京を離れるだなんてできないと思うし、そうすることが却って友達にとって辛い仕打ちだと気づいたときに、その間違いを正すことなんてできない。
彼女は、他人の気持ちを思いやれる人だった。僕とは正反対の生き方をしていた。「特別な才能」がないからとひねくれ、「不治の病」だと嘘をついた、僕なんかとは。
短冊の蒼さに息をつき、僕はもう一度笹飾りを見上げた。
『大人になるまで、生きられますように』。すべての始まりだったあの短冊は、彼女が書いたものだった。僕はそれに自分のイニシャルを書き足し、バカな嘘をつくりあげた。彼女はその嘘を信じた。そして、いまも空でその嘘を信じ続けている。すぐに行くはずだった僕を待ち続けている。
そう、「不治の病」であるという僕の嘘を、僕は最後まで彼女に打ち明けることはしなかったのだ。
それはなぜか。
「僕は死ぬ」、僕がそう嘘をついたからこそ、彼女は僕に心を開くことができた。
これ以上自分の死に悲しむ人を増やさないため、友達とも連絡を絶ち、新たな友達もつくらない。そう決意した彼女は、とても孤独だっただろう。寂しかったはずだ、辛かったはずだ。
けれど、そこに彼女と同じく「すぐに死んでしまう」僕が現れた。「神さまが出会わせてくれたのかと思った」、彼女がそう言ったように、僕の嘘は、彼女にとっては希望に他ならなかった。
だから、僕たちはあの短い夏を一緒に過ごすことができた。
それが理由だ。
僕は、僕の嘘を――彼女にとっての希望を奪いたくなかった。僕が僕のためについた嘘を、僕はそのとき彼女のための嘘に変えたのだ。
それは、自分のことだけしか考えていなかった僕が、初めてほかの誰かのために成し遂げたことだった。
「……人間の魂の重さって、知っとるか?」
僕は空に向かって語りかけた。応えるように、風が吹く。笹が揺れる。
彼女はそこにいる。その見えない存在を信じて、僕は言葉を続ける。
「人間が死ぬその瞬間、魂の分だけ体重が軽くなるんやって。それが魂の重さ。どれくらいだと思う? ……正解は、21g。たったそれだけや。君が死んで、この世界は21gだけ、軽くなったんや」
僕はそう言って、答えを待った。しかし、空は白いばかりで、彼女の声は聞こえない。
「たったそれだけなんや」
僕は空に繰り返した。
「それなのに……」
なぜこんなにも重いのだろう。彼女の存在は、思い出は、感情は、僕の胸をいつまでも重たく沈ませるのだろう。
言葉にならない感情を堪えていると、代わりに涙が溢れてきた。それを、慌てて拭う。
高校時代のひねくれた僕がこの姿を見れば、いい大人が何のアピールだと、鼻でせせら笑ったことだろう。
けれど、もちろん、これは僕のアピールなんかじゃなかった。
これは、彼女のための涙。「僕」のことしか考えられなかった僕が、他人のために流す涙。いまも僕の嘘を信じ、現世と黄泉を繋ぐ道で待っていてくれている、彼女のための感情。
「……僕も必ず行くから」
僕は言った。
目を閉じると、あの参道の風景がまぶたに浮かぶ。蝉の声、風の音。連綿と続く朱色に佇む、後ろ姿の彼女。いまはどんなに声を掛けても、彼女は決して振り向かない。
その後ろ姿に届くように、大きな声で呼びかける。
「必ず行く。だから、もう少しそこで待っててくれ」
彼女はやっぱり振り向かず、僕に応えることもしなかった。
けれど、僕は知っている。僕の声は彼女に届いているのだということを。そして時が来れば、彼女はあの無邪気な微笑みで、僕を振り向いてくれることを。
「待っててくれよな」
僕は叫んだ。
その僕の隣を、あの白いワンピースを揺らした風だけが、微笑むように通り過ぎた。
【マイナス21gの世界――完】