嘘は世界を軽くする
思わず目だけでそちらを見ると、そこには一人の女の子が立っていた。白い日傘を差して、目は笑うように細められている。
「わっ」
驚いてバランスを崩した僕は、尻餅をつくような格好で倒れ、階段にしたたかに腰を打ちつけた。
「大丈夫ですか!」
まさか転ぶと思っていなかったのだろう、女の子の慌てた声が聞こえる。
「いってえ……」
涙がにじむほどの痛みに、僕は取り繕うこともできずにその場に丸まった。
子供の頃ならともかく、高校生になってからはまず転ぶなんてことがない。久方ぶりの痛みに呻いていると、女の子は何を思ったか、本殿の奥に大声を出した。
「すいません! 誰かいらっしゃいますか! すいません!」
「いや、そんな、人を呼ぶほどじゃ……」
僕は呻きながらもそう言ったが、どうやら女の子の耳には届かなかったようだ。すいません、彼女は何度も叫び、すると中から「はいはい」と男性の声が聞こえた。
「おや、藤川さん、どうしたん?」
中から出てきたのは住職――ではなく、神社の場合は神主というんだろうか、袴をはいた五十歳くらいのオッサンだった。女の子と顔見知りなのだろうか、僕がそろそろと顔を上げると、オッサンは人の良さそうな丸い顔でにこっと笑った。
「この人、ここで転んじゃったんです。私がびっくりさせたから……」
女の子が青い顔をしている。
「ほう、どがぁかね?」
「いや、ちょっと尻餅みたいになって……大丈夫です、全然、打っただけなんで」
そう言いながら、うっ、と痛みに呻く。オッサンが遠慮なく僕の腰のあたりを押したのだ。
「ああ、ここか。アザになりそうじゃね。ちょっと待ってや、何か冷やすものを持って来るけえ」
「あ、本当に大丈夫ですから……」
「ええから、ええから、ちょっと待ちんさい」
ひょいと立ち上がると、僕の制止も聞かず、再び奥へ戻っていく。
転んだ本人がいいって言ってんだから、やめてくれよ。僕は恥ずかしさでうんざりしながら、その背中を見送った。
この隙にさっさと帰ってしまおうかとも思ったが、隣にはあの女の子――青い顔をした、「藤川さん」がいる。土足禁止を注意してきたほどのお節介が、逃げる僕をすんなり行かせてくれるとは思えない。
「あの……本当にごめんなさい」
おずおずと、彼女が頭を下げる。顔だけで振り返ると、彼女は申し訳なさそうにうつむいた。いつのまにか、白い日傘は畳まれている。同じ白の、染み一つないワンピースが風に揺れた。
「いや、土足で上がったのはこっちだけぇ」
つい、方言で言って気がついた。
「え? なんですか?」
僕の視線に気づき、彼女が怯える。
「いや……地元の人じゃないなと思って」
若い人は方言を話さなくなったと言われて久しいが、それでも完璧に訛りのない言葉をしゃべることはない。そもそも東京と同じ言葉でもイントネーションが全く違うし、家族相手にはつい方言が出てしまう。
けれど、さっきの「ごめんなさい」、あれは綺麗な東京の言葉だった。ニュースやテレビで聞く、あのイントネーションだ。
「そうなんです。私、東京から……」
彼女は嬉しそうに言いかけて、それから語尾を濁らせる。
「転校? どこの中学校?」
沈黙が嫌で、僕は聞いた。
華奢で小さな体からそう見当をつけたのだが、すると彼女は困ったように笑った。
「あ、私、こう見えても十六で……」
「十六?」
「はい」
「そうなんや……」
同い年だ、そう知った瞬間、僕は気まずさを感じて口を閉じた。
自慢じゃないが、僕は女子が苦手だ。別にモテるわけじゃないし、特別に好きな子もいないし、もちろん付き合ったことがあるどころか、高校に入ってから女子としゃべった回数なんて、両手で数えられるくらいしかない。それも、委員会の話し合いとか、掃除当番決めを「しゃべった」に数えていいなら、の回数だ。
「あ、もしかして、同い年ですか? えっと……あの、私は藤川唯っていいます」
ぺこり、頭が下げられる。片方の耳の下で一つにまとめられた髪が、さらりと揺れる。
これは、僕も自己紹介しろってことなんだろうか。
「……月森寛人です。津和野高校の二年で」
「つきもり……?」
「えっと、夜に出る月に、森って、普通の森……」
だんだん声が小さくなるのを自覚しながら、ぼそぼそと言う。
「月森。え、月森って……」
何が珍しいのか、彼女が独り言のように繰り返したときだった。
「湿布がなかったけん、これで我慢してや」
さっきの丸顔のオッサンが、ビニール袋に入れた氷を手に戻ってくる。
「綺麗な氷じゃけん、食ってもええぞ」
「あ、ありがとうございます」
氷を受け取り、僕は立ち上がる。そのTシャツの裾を、神主さんはぺろっとめくった。そして顔をしかめる。
「あー、こりゃアザになるでぇ。急がんと、ちゃんと冷やしていきんさい。そうや、社務所でお茶でも出すけえ」
「いや、僕は……」
「藤川さん、社務所、わかるじゃろ。連れてきいや」
「はい」
僕の意見をお構いなしに、オッサンは再び奥へ消えていく。行きましょうか、とでもいうように、藤川さんが立ち上がる。パン、軽い音を立てて、日傘を広げる。
東京の女子高生は、みんな日傘なんて洒落たもんを差してるのか?
僕がそう思った時だった。あ、小さくつぶやいて、彼女が地面に落ちた短冊を拾い上げた。僕が竹のてっぺんにかけようとして、見事に失敗したものだ。
大人になるまで生きたい、という誰かのアピールに、「高校卒業の朝に死ぬ」という「設定」の僕が書き足した、涙を誘う願い事。
もちろん、それは人の目に触れる前提でイニシャルを入れたものだ。けど、僕の知らないところで見られるのならともかく、それが目の前で僕の願いだと知られるのは、少しキツい。しかも、初対面の女の子相手に。
「そ、それ――」
僕は、短冊に向けられた彼女の視線を遮ろうとした。しかし、それは失敗に終わった。
立ち上がった瞬間の腰痛に思わず呻き、目を開けると、彼女はもう短冊を読んだ後だったのだ。
「……これって」
彼女の青い顔が、僕を振り返った。青ざめているのではない、きっと日傘なんか差しているから極端に色が白く、それが顔色を青く見せているのだろう。もしかしたら、短冊の蒼が彼女の肌に映り込んでいるのかもしれない。しかし、いまはそんなことはどうでもよかった。
短冊を読み、振り向いた彼女の表情。その内容を真に受けたような目に、僕は理不尽な苛立ちを感じていた。
『大人になるまで、生きていられますように』。そんな馬鹿げた内容を、どうしてこいつは信じるんだろう。僕が不治の病であることを察したような目で、こっちを見つめてくるんだろう。まるで僕を憐れむかのように――。
「H・Tって、これ……」
月森寛人《H・T》ってあなたですよね、とでもいうように、揺れる眼差しが僕を見つめる。
「……そうや」
どれくらい見つめ合っていただろう。気がつくと、僕は彼女の問いにうなずいていた。
彼女の白い喉が上下に動く。その顔に浮かんでいるのは、驚きと憐れみ――それからあの奇妙な光は羨望だろうか。
「誰にも言わないでほしいんやけど……実は、僕、あと二年も生きられないんや」
暗い愉悦を噛み締めながら、僕は告白した。
東京から来た、もう二度と会うこともないかもしれない女の子。あんな願い事を真に受けるほどバカで、お節介な女の子。
藤川唯に嘘の告白をすることは、あのイニシャル入りの短冊を竹に吊すよりも、ずっと楽しい遊びに思えた。
「わっ」
驚いてバランスを崩した僕は、尻餅をつくような格好で倒れ、階段にしたたかに腰を打ちつけた。
「大丈夫ですか!」
まさか転ぶと思っていなかったのだろう、女の子の慌てた声が聞こえる。
「いってえ……」
涙がにじむほどの痛みに、僕は取り繕うこともできずにその場に丸まった。
子供の頃ならともかく、高校生になってからはまず転ぶなんてことがない。久方ぶりの痛みに呻いていると、女の子は何を思ったか、本殿の奥に大声を出した。
「すいません! 誰かいらっしゃいますか! すいません!」
「いや、そんな、人を呼ぶほどじゃ……」
僕は呻きながらもそう言ったが、どうやら女の子の耳には届かなかったようだ。すいません、彼女は何度も叫び、すると中から「はいはい」と男性の声が聞こえた。
「おや、藤川さん、どうしたん?」
中から出てきたのは住職――ではなく、神社の場合は神主というんだろうか、袴をはいた五十歳くらいのオッサンだった。女の子と顔見知りなのだろうか、僕がそろそろと顔を上げると、オッサンは人の良さそうな丸い顔でにこっと笑った。
「この人、ここで転んじゃったんです。私がびっくりさせたから……」
女の子が青い顔をしている。
「ほう、どがぁかね?」
「いや、ちょっと尻餅みたいになって……大丈夫です、全然、打っただけなんで」
そう言いながら、うっ、と痛みに呻く。オッサンが遠慮なく僕の腰のあたりを押したのだ。
「ああ、ここか。アザになりそうじゃね。ちょっと待ってや、何か冷やすものを持って来るけえ」
「あ、本当に大丈夫ですから……」
「ええから、ええから、ちょっと待ちんさい」
ひょいと立ち上がると、僕の制止も聞かず、再び奥へ戻っていく。
転んだ本人がいいって言ってんだから、やめてくれよ。僕は恥ずかしさでうんざりしながら、その背中を見送った。
この隙にさっさと帰ってしまおうかとも思ったが、隣にはあの女の子――青い顔をした、「藤川さん」がいる。土足禁止を注意してきたほどのお節介が、逃げる僕をすんなり行かせてくれるとは思えない。
「あの……本当にごめんなさい」
おずおずと、彼女が頭を下げる。顔だけで振り返ると、彼女は申し訳なさそうにうつむいた。いつのまにか、白い日傘は畳まれている。同じ白の、染み一つないワンピースが風に揺れた。
「いや、土足で上がったのはこっちだけぇ」
つい、方言で言って気がついた。
「え? なんですか?」
僕の視線に気づき、彼女が怯える。
「いや……地元の人じゃないなと思って」
若い人は方言を話さなくなったと言われて久しいが、それでも完璧に訛りのない言葉をしゃべることはない。そもそも東京と同じ言葉でもイントネーションが全く違うし、家族相手にはつい方言が出てしまう。
けれど、さっきの「ごめんなさい」、あれは綺麗な東京の言葉だった。ニュースやテレビで聞く、あのイントネーションだ。
「そうなんです。私、東京から……」
彼女は嬉しそうに言いかけて、それから語尾を濁らせる。
「転校? どこの中学校?」
沈黙が嫌で、僕は聞いた。
華奢で小さな体からそう見当をつけたのだが、すると彼女は困ったように笑った。
「あ、私、こう見えても十六で……」
「十六?」
「はい」
「そうなんや……」
同い年だ、そう知った瞬間、僕は気まずさを感じて口を閉じた。
自慢じゃないが、僕は女子が苦手だ。別にモテるわけじゃないし、特別に好きな子もいないし、もちろん付き合ったことがあるどころか、高校に入ってから女子としゃべった回数なんて、両手で数えられるくらいしかない。それも、委員会の話し合いとか、掃除当番決めを「しゃべった」に数えていいなら、の回数だ。
「あ、もしかして、同い年ですか? えっと……あの、私は藤川唯っていいます」
ぺこり、頭が下げられる。片方の耳の下で一つにまとめられた髪が、さらりと揺れる。
これは、僕も自己紹介しろってことなんだろうか。
「……月森寛人です。津和野高校の二年で」
「つきもり……?」
「えっと、夜に出る月に、森って、普通の森……」
だんだん声が小さくなるのを自覚しながら、ぼそぼそと言う。
「月森。え、月森って……」
何が珍しいのか、彼女が独り言のように繰り返したときだった。
「湿布がなかったけん、これで我慢してや」
さっきの丸顔のオッサンが、ビニール袋に入れた氷を手に戻ってくる。
「綺麗な氷じゃけん、食ってもええぞ」
「あ、ありがとうございます」
氷を受け取り、僕は立ち上がる。そのTシャツの裾を、神主さんはぺろっとめくった。そして顔をしかめる。
「あー、こりゃアザになるでぇ。急がんと、ちゃんと冷やしていきんさい。そうや、社務所でお茶でも出すけえ」
「いや、僕は……」
「藤川さん、社務所、わかるじゃろ。連れてきいや」
「はい」
僕の意見をお構いなしに、オッサンは再び奥へ消えていく。行きましょうか、とでもいうように、藤川さんが立ち上がる。パン、軽い音を立てて、日傘を広げる。
東京の女子高生は、みんな日傘なんて洒落たもんを差してるのか?
僕がそう思った時だった。あ、小さくつぶやいて、彼女が地面に落ちた短冊を拾い上げた。僕が竹のてっぺんにかけようとして、見事に失敗したものだ。
大人になるまで生きたい、という誰かのアピールに、「高校卒業の朝に死ぬ」という「設定」の僕が書き足した、涙を誘う願い事。
もちろん、それは人の目に触れる前提でイニシャルを入れたものだ。けど、僕の知らないところで見られるのならともかく、それが目の前で僕の願いだと知られるのは、少しキツい。しかも、初対面の女の子相手に。
「そ、それ――」
僕は、短冊に向けられた彼女の視線を遮ろうとした。しかし、それは失敗に終わった。
立ち上がった瞬間の腰痛に思わず呻き、目を開けると、彼女はもう短冊を読んだ後だったのだ。
「……これって」
彼女の青い顔が、僕を振り返った。青ざめているのではない、きっと日傘なんか差しているから極端に色が白く、それが顔色を青く見せているのだろう。もしかしたら、短冊の蒼が彼女の肌に映り込んでいるのかもしれない。しかし、いまはそんなことはどうでもよかった。
短冊を読み、振り向いた彼女の表情。その内容を真に受けたような目に、僕は理不尽な苛立ちを感じていた。
『大人になるまで、生きていられますように』。そんな馬鹿げた内容を、どうしてこいつは信じるんだろう。僕が不治の病であることを察したような目で、こっちを見つめてくるんだろう。まるで僕を憐れむかのように――。
「H・Tって、これ……」
月森寛人《H・T》ってあなたですよね、とでもいうように、揺れる眼差しが僕を見つめる。
「……そうや」
どれくらい見つめ合っていただろう。気がつくと、僕は彼女の問いにうなずいていた。
彼女の白い喉が上下に動く。その顔に浮かんでいるのは、驚きと憐れみ――それからあの奇妙な光は羨望だろうか。
「誰にも言わないでほしいんやけど……実は、僕、あと二年も生きられないんや」
暗い愉悦を噛み締めながら、僕は告白した。
東京から来た、もう二度と会うこともないかもしれない女の子。あんな願い事を真に受けるほどバカで、お節介な女の子。
藤川唯に嘘の告白をすることは、あのイニシャル入りの短冊を竹に吊すよりも、ずっと楽しい遊びに思えた。