嘘は世界を軽くする
2章 藤川唯

 社務所で日熊さんに冷たいお茶をごちそうになり、いつものようにゆっくりと千本鳥居の石段を下る。

 山の緑と鳥居が太陽の光を遮ってくれるから、参道では日傘は差さない。それを杖の代わりにして、一歩一歩転ばないように慎重に歩く。

 苔むした石段は、いつも湿っていて滑りやすい。それに上りよりも、下りが危ない。

 上りは車で送ってもらっているからいいとして、帰りは石段が滑り台になったらいいのに。

 私は朱色の中を滑り落ちていく想像をする。曲がりくねって先の見えない滑り台は、きっとスリル満点だ。花やしきのあの小さなジェットコースターよりも、ずっと面白いに違いない。

 階段の途中で一息つき、誕生日に友達からもらった腕時計を見ると、ちょうど佳菜子さんが迎えに来てくれる頃合いだった。

 東京を離れるときに解約した携帯電話は、これからも持つつもりはなかった。時間を知りたければ腕時計で十分だし、島根は東京と違って山のほうは電波も入りづらい。

 お財布は常に持ち歩いているから、社務所で電話も借りられるし、そもそも一人で出歩くのは、毎日のお参りの時だけだ。携帯なんて必要ないどころか、いまはそれを手放した安らぎさえ感じている。

 それに、のんびりしに田舎にきたんだもんね――私は思い、再び注意深く石段を下り始めた。

 ビルだらけの東京では、夕方頃が一番暑い。きっと、昼間の間、コンクリートや道路のアスファルトが存分に吸った熱が、どんどん放出されるからだろう。

 だから、毎日が熱帯夜で寝苦しいし、いくら眠っても疲れが取れない。生まれ育った東京が私は大好きだったけど、あのむわっとするような熱気だけは、とうとう好きにはなれなかった。

 そんなことを考えていると、木立の間を涼しい風が吹き抜けた。私は目を閉じて、その風を受け止める。

 東京とは真逆に、ここでは夕方になると、山から肌寒いほどの風が吹く。そうなると、気温は一気に下がって、昼間の暑さはどこへやら、快適な夜がやってくる。

 温度も風も快適なら、庭から聞こえる虫の声も素敵だ。軒先の風鈴と同じで、あの虫の音が聞こえなければ、涼しさもきっと半減するだろう。

 もちろん、油断していると痛い目に遭う。電気に引き寄せられた蛾の大群が窓にへばりついているのを見て、何度卒倒しそうになったことだろう。

 けれど、それもだんだん慣れる。ううん、いつでも思い出せるほど、そんな日常の光景も目に焼きつけておきたい。だって、いつどんなものが見られなくなるのか、誰と会えなくなるのか、人生は誰にも見通しがつかないものだから。

 私は東京で別れた友達の顔を思い出した。

 サユにマー子、イッちゃん、ユミ蔵――大丈夫、まだみんなの顔を思い出せる。

 LINEのやりとりやメールだと、簡単に連絡がとれる分、私だけ遠くに来てしまったことが寂しくなる。だからアナログだけど手紙にしよう、そう提案したのは私だった。

 手紙なら、一ヶ月に一度でも寂しくない。その間隔がどんどん開いて、年賀状のやりとりだけになっても、きっとそれほど寂しくない。携帯で毎日、変わっていく東京の日常を知らされるよりは。

 私が島根の津和野にやってきたのは、それがお母さんの故郷だからだった。お父さんは元々東京の人だけど、こっちに転勤になるよう、本社にお願いしたらしい。その願いが叶って、私たち三人は津和野のおばあちゃんちに――正確に言えば、同じ敷地内に建っている、おばあちゃんの家の隣に住むことになったのだった。

 プッ、石段を下りきると、赤い軽自動車に乗った佳菜子さんが、居場所を知らせるようにクラクションを軽く鳴らした。

「いつもありがとうございます」

 私がお礼を言って乗り込むと、「どういたしまして」、佳菜子さんはおどけて答えた。

「どうだった? 変わったこと、ない?」

 そう言って、バックミラーで私を見る。助手席には佳菜子さんの娘、璃奈ちゃんのチャイルドシートが固定されているため、後部座席が私の指定席なのだ。

「はい、大丈夫です。日熊さんに、お茶、ごちそうになっちゃいました」

 一応報告すると、

「あはは、唯ちゃん、可愛いから。あんま、隙を見せちゃダメだよ。神官さんだって男なんだからね」

 佳菜子さんは怖いことを言う。

「いやいや、日熊さん、奥さんいますし。それはないですって」

 日熊さんのためにも、私がそれを否定すると、佳菜子さんは「わかんないよー」と、今度は冗談っぽく笑った。

 佳菜子さんはお母さんの従姉妹の娘さんで、東京の大学へ行っていた。だから、私と話すときは標準語で、けれど地元の人と話すときは方言を操る。バイリンガルだね、あまりの変貌っぷりに感心すると、佳菜子さんは「地方の人なら誰でもできるよ」と笑っていた。

「それにしても、暑かったねえ。神社、今日も借し切り状態だったんじゃない?」

 バックミラー越しに佳菜子さんが言う。はい、私はうなずいた。

「あ、でも……」

 ふとあの男の子のことを思い出して、目を伏せる。

 彼――月森ヒロトと名乗った、私と同い年だという彼は、結局社務所には来なかった。日熊さんに申し訳ないと思っているのか、それとも急ぎの用事があったのかはわからない。それに、なぜ私にあんなことを言ったのかも――。

『実は、僕、あと二年も生きられないんや』

 初対面の男の子の、突然の告白。同い年とは思えないほど暗い目をした彼は、イニシャルを記した蒼い短冊を持っていた。それを竹に吊そうとしていたところを、私が邪魔してしまったのだ。「土足禁止ですよ」なんて、バカみたいな声をかけて。

 ひどい転び方をしたから、相当痛かっただろうに、あのまますぐ帰って大丈夫だっただろうか。それとも、帰ろうとした彼を、なんとしてでも引き止めるべきだったのか。けれど、彼の告白はそんな気もすべて削ぐような空気を孕んでいた。

 けれど――私はため息をついた。

 彼についての疑問は三つある。

 一つは、どうして彼があんな短冊を持っていたのだろうということ。あと二年も生きられないというのは本当なのだろうかということ。それから、月森寛人、彼の名前は、あれは確か――。

「……唯ちゃん?」

 ふと呼ばれて我に返ると、ミラーの中の佳菜子さんが心配そうな顔をしていた。
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