嘘は世界を軽くする
「あ、別に何でもないです、ちょっと考え事してただけで」

 急いで笑顔を作り、私は答える。こっちに来てから、何かと気にかけてくれる人たちのおかげで、私は作り笑顔が上手くなった。

「考え事って?」

 私の笑顔の有効性を証明するように、ほっとした顔で佳菜子さんが尋ねた。

「あ、別に聞いてもいいのなら、だけど」
「全然そんなのいいですよ」

 日常的に気を遣われすぎると、それはそれでへこんでしまう。私はできるだけ軽い調子で言った。

「あの、前にすごいって言った絵のことなんですけど……」
「絵?」

 佳菜子さんは、一瞬考えるような顔をしたが、すぐに思い当たったというように笑いながらうなずいた。

「ああ、あの唯ちゃんが感極まってたやつね。あの大きい絵」
「そうです、あのおっきいやつです」

 言いながら、私はいますぐにでもその絵を見たい衝動に駆られた。

 こんなとき、携帯があれば撮った写真を見られるのに、と思う。けれど、やっぱりあれは実物を見てこそ感動するんだ、と思い直す。情報を持ち歩ける携帯はすごいけれど、やっぱり自分の目で見たときの感動には代えがたい。

 東京にいたときには、体験をする良さというものがまったく理解できなかった。年配の人が「若い人は何でも写真に撮って残そうとする」と愚痴っているのを聞いて、「やっぱ老人にはこの便利さがわかんないんだろうな」なんて思ってたくらいだ。

 けど、都会と携帯から離れてから、私はやっとそういう人の気持ちがわかったような気がする。

 変な言い方かもしれないけど、私はいままで自分の体を使って生きていなかった気がしていた。東京での私は、情報の海に浮かぶちっぽけな脳みそだった。そんなわけはないけれど、こめかみのあたりにプラグがあって、情報が脳みそに直に流れ込んで来ているような。

 そして、その情報の快不快によって、私たちの気持ちは上がったり下がったりする。心地いい音楽に楽しくなったり、聞きたくもない誰かの罵倒が流れてきて辛くなったり。

 だから、私たちはその海の中から、できるだけ気持ちのいい情報だけを選んで、脳みそに繋ごうとする。情報選びをうまくすることが、東京で生きていくコツのようなものだ。

 けれど、田舎に越し、携帯を捨ててしまった私の脳みそには、選ぶだけの情報は入らなくなった。その代わりに何が入ったかっていうと、事実だ。私の目で見る事実。耳で聞こえる事実。手で触れられる事実。

 よりどりみどりの情報と違って、事実はそこに一つしかない。商品開発部の人が開発した、最先端のフニャフニャ食感グミが「情報」なら、「事実」はおばあちゃんちで出される羊羹だ。アズキがどっしり詰まっている、食感も味も見た目通りの存在。

 フニャフニャ食感グミの原材料を、私は理解することができないし、再現もできない。けど、羊羹なら私にも作れる。全然目新しさはないけれど、カタカナばっかりの材料で作られたグミより、身近なものだ。

 思うに、事実ってそういうもの。

 ひらひらで華やかな情報は楽しいけれど、現実の私が見たり聞いたり触ったり、そんなことができるものは限られている。そんな事実の確かさに、私はいま、不思議と安心させられているのだ。

「佳菜子さん、あの絵の作者って、覚えてます?」

 私は少し慎重になって聞いた。

 月森ヒロト。

 今日会ったばかりの、奇妙なことを言う男の子。その人のことが気になっていたのは、その名前のせいだった。

 その名前は、私が気に入ったあの大きな絵の作者と同じだった。作者の名は「月森寛人」。あの人が言ったとおり、「夜に出る月に、普通の森」で「月森」という珍しい苗字に、名前の「ヒロト」。男の子の名前にどういう漢字を当てるのかはわからないが、同姓同名というには珍し過ぎるような気がする。

「絵の作者? さあ、気にしたことなかったからなあ……」

 佳菜子さんは眉間に皺を寄せた。しかし、すぐに「でも」と続けた。

「あの絵を描いた人、多分津和野の人だった気がするんだけど」
「え、そうなんですか?」

 私は驚いた。

 あの大きな絵。

 去年の文化祭で美術部の展示を見に行ったとき、マー子は自分の絵を指して「これは十号キャンバスなんだ」と言っていた。それでも、大きい絵だなと思ったというのに、あの絵は一体何号サイズなんだろう。広い吹き抜けに飾られているからよくわからないけれど、横幅だけでも両手を広げた大人二人分くらいあるんじゃないだろうか。

 そんな大きな絵を、私と同い年の男の子が描いた? いや、描くだけなら誰にでもできるのかもしれない。けど、あんなに人の心を動かす絵を描くなんて、誰にでもできることじゃない。

「すごいですね……」
 思わずつぶやくと、

「本当にあの絵、気に入ったんだね」
 佳菜子さんは声を立てて笑った。

「なんか、美術館とか行ったら、ほかの絵もあるんじゃないかな? 有名な人だったら、あの絵のポストカードとかあってもおかしくないかも」

「わあ、それもいいかも……」

 言いながら、ほんの少し違和感を覚える。けれど、その感覚が何かつかめないまま、私は少し考えて首を振った。

「美術館は行ってみたいけど、ポストカードはいいかな」

「どうして?」
 ハンドルを切りながら、佳菜子さん。

 だって、私は彼女に気を遣わせないよう、茶目っ気たっぷりに言った。

「いまのところ、毎日、あの絵に会えるんですから」
「そうだね」

 言い方が功を奏したのか、佳菜子さんがくすりと笑った。シフトをパーキングに入れ、エンジンを切る。

 車のドアを開けると、幼稚園児たちの賑やかな声が響いてきた。その中から、ひときわ大きな声が
「璃奈ちゃんのママでぇ!」、と佳菜子さんを見て叫ぶ。

「ちょっと待っててね」

 いつものように、佳菜子さんはそう言うと、璃奈ちゃんを迎えに軽快な足取りで園へ向かう。五分もしないうちに、全身から太陽の匂いをさせた璃奈ちゃんが飛び込んでくる。「唯ちゃん、あのね」、たどたどしくおしゃべりを始める。

 私は可愛らしいおしゃべりに耳を傾けながら、明日は「月森ヒロト」に会えるだろうか、そんなことを考えていた。
< 7 / 23 >

この作品をシェア

pagetop