嘘は世界を軽くする
 次の日の午後二時ちょうど。

 私はいつもと同じ時間に、礼を言って佳菜子さんの車から下りた。

 いつも同じ時間になるのは、お年寄りの訪問サービスをしている佳菜子さんがおばあちゃんちに寄り、神社方面へ向かうのがこの時間だからだ。朝出かけたあと、お昼ご飯は家に帰って食べる私の予定にもぴったりで、璃奈ちゃんの迎えもあるからと帰りも拾ってくれる佳菜子さんに、私はとても感謝している。

 朝から仕事に出るお母さんは、何も炎天下に出かけなくても、というけれど、最終的には私の意思を尊重してくれた。

 一人っ子の私に、両親は過保護すぎる。できたら毎日お参りに行きたいという私に、初め、お母さんはわざわざ仕事を休んでついてきた。そして、そこで偶然会った神官さん――つまり日熊さんに、どうぞよろしくお願いします、なんて頭を下げたのだ。だから、私は恥ずかしくて、子供っぽくそっぽを向いてしまった。

 熱中症にならないように、ちゃんとお茶も持ってるし、飴だって持ってる。おまけに日傘も差していて、しかも参道を上るのは大変だからって、行きは佳菜子さんが車で本殿まで上がってくれるっていうのに、もうどれだけ心配性なんだろう。

 パン、私は真っ白な日傘を広げると、くるりと回しながら頭上に差した。ゆっくりと歩き出す。

 あんなに晴れていた昨日とは違い、今日は少し雲が出ている。島根は薄曇りが多いのだとお母さんは嫌そうに言っていたが、それはそれで綺麗な風景だと私は思う。

 いつでも真っ青な空が一番、なんてことはない。逆に、いつも変わらずに青い空なんて退屈だ。雲が毎日、空の表情を変えて、二度と同じ空は見られない。そう考えると、毎日が貴重に思える。そのほうが生きてるって感じがするじゃないか。

 駐車場には、見慣れた車しか止まっていなかった。神官さんたちの車だ。夏の一番暑い時間帯ということもあってか、私以外の参拝者は見たことがない。

 昨日の「月森ヒロト」に会うまでは――。

 ひょい、社務所の裏から覗くように、私は本殿のほうを見た。

 誰もいない。

 張り詰めていた息が、ため息になって口から出る。そうしてから、私は彼と会うことを意外なくらい楽しみにしていたんだと知る。

「あーあ……」

 軽くつぶやいて、気分を持ち直そうとしたときだった。「すみませーん」、誰かの声がした。
 男の人の声だ。

 私はドキドキしながら、反対側を向いた。そして、その姿を見て、心臓が飛び上がるのを感じた。

 「月森ヒロト」だ。

 授与所を覗き込むようにした彼が、何度も「すいませーん」を繰り返している。そこにはいつも人がいないのだが、彼はそれを知らないのだろう。

 すぅ、はぁ。私は深呼吸をして、心臓のドキドキを収めた。これ以上ドキドキしたら倒れてしまいそうだ。できるだけ落ち着かなくては。

「あ、あの! こんにちは!」

 十分に気を静めてから声をかけたつもりだったが、時期尚早だったらしい。こんにちはの声が恥ずかしいほど裏返る。

「……どうも。こんにちは」

 あんな変な声で声をかけられたら、そりゃ驚くだろう。彼はぽかんとしたような、それでいて気まずいような顔で私に答える。

「あっ、き、昨日会って……」

 ああ、だめだ。頭がパニックになってわけのわからない言葉しか出てこない。大体、中学の時から女子校だったため、男の子と話すのは慣れていないのだ。……というのは、男子と接点のなかった私の悲しい言い訳で、サユやイッちゃんには彼氏がいたんだから面目は立たない。

 昨日、えっと昨日、となぜか昨日ばかりを繰り返し始めた私に、男の子は今度は呆れたような顔をする。それから、

「藤川さん、やったよね。覚えとる」
 そう言ってくれる。

「あ、よかった、はい、そうです。あ、あの……」
 そこで彼の怪我のことを思い出す。

「大丈夫でしたか? その、私が……転ばせちゃって……」
「ああ、全然」

「あ、全然? よかった」
 平然と答える彼に、ほっとする。

 けれど、それと同時に自分の気遣いのなさに頭を抱えたくなった。

 あと二年しか生きられない――彼はそう言った。それが本当なら、打ち付けた腰の痛みなんてどうでもいいようなものなのかもしれない。

「昨日、聞きそびれたんやけど」
 私が後悔していると、「月森ヒロト」くんは唐突に言った。

「藤川……さんって、キセイかなんか? それとも、転校とか……」
「キセイって……?」

「ああ、なんかばあちゃんちに帰ってくる人とかおるじゃろ。そういうんかなあと思って」

 キセイ。ああ、帰省か。
 ようやく混乱が収まってきた頭で理解する。曖昧に首をかしげる。

「うーん、帰省とかじゃないけど……」
「じゃ、転校生?」

 なぜか用心するような顔で、彼が聞く。

「えっと、転校生……」
 言いながら、彼が「津和野高校」だと言っていたことを思いだした。それなら、とうなずく。

「でも、私立だから、月森……くんとは違う高校かも」

 顔が赤くなる。男子を「くん」付けで呼んだのは、幼稚園以来初めてかもしれない。マー子やイッちゃんの彼氏は、それぞれあだ名で呼んでいたのだ。

「そっか」
 すると、月森――くんは、なぜかほっとしたようにため息をついた。

 共学の雰囲気はよくわからないけど、転校生が転校してくる前から知り合いだったら――それも女の子の知り合いだと恥ずかしいという気持ちは何となくわかる。私も何となくほっとして、口を閉じた。

 会話と心臓の音が聞こえなくなると、境内には蝉の声がこだました。

 濃い緑と薄曇りの空。風が私のワンピースの裾を揺らす。昨日は白一色だったけど、今日は夏らしいネイビーの線が入ったワンピース。中学生に見られたことが少しショックで、大人っぽいものを選んでみたのだ。

 月森ヒロト。あの絵を描いた画家と同姓同名のこの人に、また会えるかもしれない、そう思ったから。

 私は目の前の、どこなく憂鬱そうな男の子をそっと見つめた。視線をペットボトルを持つ手に落とす。

 この手が、あの大きな絵を描いたのだろうか。完全に抽象的で、それでいてたった一つのものをこれでもかと指し示しているような、あの美しい絵を。
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