嘘は世界を軽くする
日差しが雲に翳って、ふと我に返ると、私は彼と向かい合ったまま、黙りこくっている自分に気づいた。
「あの、お参りがまだなら、一緒にしませんか? あっ、ここ、お揚げがお供えできるの知ってます? あっちの、手水場のところにお揚げがあって……」
一度気づいてしまうと、沈黙は耐えがたく、私は早口で説明をした。そうしながら、また私は何を言っているのだ、とへこむ。地元の人相手に、神社の説明をするなんて……。
「お揚げ?」
しかし、意外にも月森くんはそれを知らなかったようだった。
「何でそんなものを……」
「そんなものって、そんなこと言っちゃだめですよ」
私は思わず突っ込んだ。
地元の人なのにそんなことも知らないなんて、教えてあげなくちゃ、妙な正義感が湧き上がってくる。
「ここは、名前の通り、お稲荷さんなんですよ」
手水場へ向かって歩き出しながら、私は言った。
「太皷谷稲成神社、ね? それで、お稲荷さんのお使いは狐なんです」
振り返ると、微妙な顔をした月森くんがついてくる。それを確認して、私は続けた。
「で、狐の好物と言ったら、何ですか?」
「……油揚げ?」
あの微妙な顔から出たのであろう、微妙な声が答える。私はその微妙さを振り払おうと、元気よくお揚げの前で振り返った。
「そうです! 油揚げ! ここじゃお揚げって言うんですね。それで、ここにお供え用のお揚げが売ってるので、これを買って、と……」
お財布の中から三百円を取り出して、箱に入れる。一枚百五十円分のお揚げ、二枚分だ。それから、はいどうぞ、と一枚をとって月森くんに差し出す。
「え?」
彼がギョッとしたような目で私を見る。
「お供えしたことないんですよね? やりましょうよ」
「でも……悪いから」
「いいんですってば」
「けど、僕……」
「もう三百円、入れちゃいましたから。どうぞ」
「いや、じゃけん……」
居酒屋の前のサラリーマンみたいなやりとりになる。
「じゃあ、今度ジュースおごって下さい」
最終的にサラリーマンが言うみたいに、私は言った。
「だから、はい」
すると、月森くんはようやく折れ、私のお揚げを受け取る。私も自分の分を取ると、本殿のほうへ引き返した。神狐像の前へ進む。
「あ、ダメです、ダメです、まだお供えしちゃ」
早速、御供物台へお揚げを置こうとする月森くんを慌てて止める。
「え? ダメって……」
「まずは、ろうそくを取りだして」
お揚げにはろうそくとマッチが付属している。それを先に取り、燭台にろうそくを置く。マッチを擦り、火を灯す。
「それから、お揚げをお供えするんです」
そう言って、御供物台にお揚げを置く。ガラガラと鈴を鳴らし、二礼二拍手一礼の順でお参りをする。
神さま、今日も参りました――心の中でそうつぶやいて、願いを込めてお祈りをする。どうか、私の願いが叶いますように。それから――。
私は続けて、月森くんの病気が治りますように、そうお願いをして、ふと二つも願い事を言ったら神さまはどちらも叶えてくれないんじゃないか、と思った。
それなら――。
私は目を閉じたまま、神さまへのお願いをやり直した。
これが私の願いです。だから、どうか叶えて下さい。祈りを込めて、頭を下げる。それからやっと目を開けると、月森くんはもうお祈りを済ませて、所在なさげに立っていた。
「――って、これがお参りです。毎日、お揚げをお供えしてるわけじゃないですけど」
「よくやるね」
月森くんの口調はどこか皮肉っぽかった。それは、神さまなんて存在があやふやなものに願ったって、どうしようもないだろうとでも言いたげだった。
彼の寿命を決めているもの、それが病気なのか何なのか、私にはわからなかった。けれど、気軽に「きっと願いは叶うよ」なんて言えなくて、私は少しうつむいた。すると、神社のご祭神の説明が目に入った。
「……宇迦之御魂神《うがのみたまのかみ》と、伊弉冉尊《いざなみのみこと》だって」
私がつぶやくと、「何が」と月森くんは聞き返し、続けて、
「いざなみって聞いたことがある」
と言った。それから、
「あれ? でもいざなぎ? いざなみ? 何や、ややこしい……」
顔をしかめる。
「イザナミは女神さまで、イザナギはその旦那さんです」
説明にある文章を、私は読み上げた。月森くんの顔色を窺い、ためらいながらも続ける。
「でも、イザナミは死んじゃって、黄泉の国に行っちゃうんです。それをイザナギは追いかけるんですけど……」
「ああ、その話、知っとるかも」
すると、月森くんが反応した。
「黄泉国を出るまで振り返っちゃダメとか、そういう話やなかった? あれ? それともそれはギリシャ神話か何かやったっけ?」
さらに顔をしかめて考え込む。
「あ、えっと……イザナミは、『黄泉の神さまと話す間、私を見ないで下さい』って言うんだけど、イザナギは見ちゃうんですね。それで、怒ったイザナミが追いかけてくるっていう」
「ああ、で、黄泉比良坂に大きな石を置いて、イザナミを封じ込めた的なやつだっけ?」
月森くんがうなずく。
「よく知ってるね。私、日熊さんに教えてもらうまで知らなかった」
目を丸くして言うと、
「漫画に載っとった」
彼は照れたようにそう言った。
顔が赤くなったのを隠すようにそっぽを向いた姿は、少し子供っぽい。
「ギリシャ神話のほうは何やったっけ」
照れを隠すように早口で言う。
「えっと、それも死の国の話です」
知らず知らずのうちに、千本鳥居のほうを眺めながら私は言った。
「それも確か奥さんが死んじゃって、旦那さんが追いかけて……そうそう、毒蛇に噛まれたとか、そんなんじゃなかったっけ……」
「そうやった」
月森くんもうなずいた。
「毒蛇に噛まれて死んだのを、生き返らせに行くんや。で、何か死の国は地下にあって、そのトンネルみたいなとこを二人で地上まで上がるんやったな。で、振り向くなって言われとうけど、振り向く的な」
「あー、なんかすごい記憶が蘇ってきたかもしれないです」
きっと幼いころに本で読んだのだろう。細い線画が頭に浮かんでくる。
暗い道を、男の人が歩いている。その後ろには、妻である女の人がいるはずなのだが、死の国の神さまは、『彼女を現世に連れ帰りたいのなら、振り向いてはいけない、声を出してもいけない』と男に言う。
男は約束を守って地上への道を歩き始めるのだが、長く暗い道のりにふと不安になってしまう。妻はちゃんとついてきているのだろうか、疑いは徐々に膨らみ、男をむしばむ。もうすぐ地上だ、もうすぐ妻は生き返る、そう自分に言い聞かせても、後ろを確かめたくてたまらなくなる。
そして、いよいよ地上だというとき、男はついに不安に耐えきれなくなり、とうとう後ろを振り向いてしまう。
その瞬間。
妻はあっという間に死の国へ引き戻されてしまい、そして二度と夫である男と会うことは許されなかった――
幼心に刻まれた恐ろしさが、私の胸に蘇った。
妻はちゃんと男の後ろを歩いていたのだ。けれど、不安に負けた男は、彼女を永遠の死に閉じ込めてしまった。
あと少しだったのに――幼い私は二人を可哀想に思った。そして、自分がもし振り向くな、と言われたら、絶対に振り向かないでおこう、と奇妙な誓いを立てたのだった。
「でも、これ、イザナミとイザナギのお話に似てますね」
つぶやいて、私はなぜ無意識に千本鳥居の参道を眺めたのか、気がついた。
「どうしたん?」
月森くんがちらりと私を見る。
「えっと……」
変なこと言うやつだと思われるかな、一瞬、そんなふうに思ったが、結局私は参道を指した。
「あの参道。何となく、黄泉と現世を繋いでる道みたいだなと思って……」
反応を見るように月森くんを見ると、彼はやはり私の言葉を変だと思ったようだった。けど、優しさからか「まあ、似とるかも」と言ってくれる。
「そうですか、あはは……」
私の上滑ったような笑い声が、再び静けさの中に消えた。月森くんは困ったような、けれど、その実、何も気にしていないような顔をして、辺りを見回している。蝉が鳴いている。
この機会に、思い切って聞いてみようか。沈黙に、私はごくりと喉を鳴らした。
あの絵を描いたのは月森くんですか――それは単純な質問だ。けれど、何だか聞くのが怖いような気もする。例えば、絵のファンだから近づいてきたと思われたら、どうしたらいいのかわからないし、そうじゃなくても気味悪く感じないだろうか。
私が考えあぐねていると、すると月森くんはごそごそとズボンのポケットを探り、手を唐突に突き出した。手のひらには、二百円が乗っている。
「え、これ……」
私は、戸惑って彼を見返す。
「お揚げ代。何か、やっぱ払ってもらうのもあれじゃけぇ」
むすっとしたような顔でそっぽを向き、月森くんが言う。私は慌てて首を振った。
「あ、いいんです、ホントに。私が勝手に買っただけだから……今度会ったときにジュースおごって下さいって、さっきも……」
「いや、いま返しとかんと、次、いつ来るかわからんやろ」
怒ったように言う月森くんに、
「いいえ、私、毎日来てます」
私が言うと、彼はわけがわからないと言った顔をした。
それはそうだろう。高校生の女子が、毎日神社に来ているなんて、ちょっとよくわからない。
「ホントです。毎日、この時間に来てます」
しかし、私が力を込めて言うと、月森くんはようやく納得したようだった。それでも、出した手は引っ込めない。
「それでも、受け取ってや」
そう言うと、何を思ったか、御供物台の上にその二百円を置く。
「そんなところに置かれても……」
思わず言うと、
「君――……藤川さんが受け取らんのがいかんのや」
そう言って、くるりと踵を返す。君、ふと出た言葉が恥ずかしかったのだろうか、ほとんど駆けるように参道の方へ歩き出す。
帰るのだろうか?
私は咄嗟にその二百円を掴むと、彼の後を追った。ちょっと待って下さい、叫ぶと、彼は驚いたようにこちらを振り向く。どんなに遠くに捨てても自分の後をついてくる捨て犬を見るような表情だ。
「あの、でも、これ……」
二、三歩走っただけで息を切らせながら、私は二百円を差し出した。
「困ります、お揚げは百五十円だし」
「ええって。……五十円くらい」
「いいえ、ダメです」
「なんや。人に百五十円おごるのはよくて、自分が五十円多く返されるのは困るって、どういうことだよ」
「でも……」
意地の悪い顔をする彼に、確かに、私は思い直した。
「それなら、今度、五十円返しに行きます。えっと、お家はこの近くですか?」
「え? 家って……マジで?」
月森くんが心底呆れたような顔をする。私の目を正面から見る。しばらくそうしてから、私が本気だと気づいたのだろう。小さく首を振った。
「明日、僕もまた来るから」
「え? そうなんですか?」
驚いて、私は聞き返した。
行動を見るに、彼は私のようにお参りに来ているわけではないだろう。だというのに、明日も神社へ来る? どうしてなんだろう。
首をかしげる私は、あることをすっかり忘れていた。
そして、そのことと、私が握りしめている二百円こそが、彼が明日もここへくる理由に他ならなかったのだった。
「あの、お参りがまだなら、一緒にしませんか? あっ、ここ、お揚げがお供えできるの知ってます? あっちの、手水場のところにお揚げがあって……」
一度気づいてしまうと、沈黙は耐えがたく、私は早口で説明をした。そうしながら、また私は何を言っているのだ、とへこむ。地元の人相手に、神社の説明をするなんて……。
「お揚げ?」
しかし、意外にも月森くんはそれを知らなかったようだった。
「何でそんなものを……」
「そんなものって、そんなこと言っちゃだめですよ」
私は思わず突っ込んだ。
地元の人なのにそんなことも知らないなんて、教えてあげなくちゃ、妙な正義感が湧き上がってくる。
「ここは、名前の通り、お稲荷さんなんですよ」
手水場へ向かって歩き出しながら、私は言った。
「太皷谷稲成神社、ね? それで、お稲荷さんのお使いは狐なんです」
振り返ると、微妙な顔をした月森くんがついてくる。それを確認して、私は続けた。
「で、狐の好物と言ったら、何ですか?」
「……油揚げ?」
あの微妙な顔から出たのであろう、微妙な声が答える。私はその微妙さを振り払おうと、元気よくお揚げの前で振り返った。
「そうです! 油揚げ! ここじゃお揚げって言うんですね。それで、ここにお供え用のお揚げが売ってるので、これを買って、と……」
お財布の中から三百円を取り出して、箱に入れる。一枚百五十円分のお揚げ、二枚分だ。それから、はいどうぞ、と一枚をとって月森くんに差し出す。
「え?」
彼がギョッとしたような目で私を見る。
「お供えしたことないんですよね? やりましょうよ」
「でも……悪いから」
「いいんですってば」
「けど、僕……」
「もう三百円、入れちゃいましたから。どうぞ」
「いや、じゃけん……」
居酒屋の前のサラリーマンみたいなやりとりになる。
「じゃあ、今度ジュースおごって下さい」
最終的にサラリーマンが言うみたいに、私は言った。
「だから、はい」
すると、月森くんはようやく折れ、私のお揚げを受け取る。私も自分の分を取ると、本殿のほうへ引き返した。神狐像の前へ進む。
「あ、ダメです、ダメです、まだお供えしちゃ」
早速、御供物台へお揚げを置こうとする月森くんを慌てて止める。
「え? ダメって……」
「まずは、ろうそくを取りだして」
お揚げにはろうそくとマッチが付属している。それを先に取り、燭台にろうそくを置く。マッチを擦り、火を灯す。
「それから、お揚げをお供えするんです」
そう言って、御供物台にお揚げを置く。ガラガラと鈴を鳴らし、二礼二拍手一礼の順でお参りをする。
神さま、今日も参りました――心の中でそうつぶやいて、願いを込めてお祈りをする。どうか、私の願いが叶いますように。それから――。
私は続けて、月森くんの病気が治りますように、そうお願いをして、ふと二つも願い事を言ったら神さまはどちらも叶えてくれないんじゃないか、と思った。
それなら――。
私は目を閉じたまま、神さまへのお願いをやり直した。
これが私の願いです。だから、どうか叶えて下さい。祈りを込めて、頭を下げる。それからやっと目を開けると、月森くんはもうお祈りを済ませて、所在なさげに立っていた。
「――って、これがお参りです。毎日、お揚げをお供えしてるわけじゃないですけど」
「よくやるね」
月森くんの口調はどこか皮肉っぽかった。それは、神さまなんて存在があやふやなものに願ったって、どうしようもないだろうとでも言いたげだった。
彼の寿命を決めているもの、それが病気なのか何なのか、私にはわからなかった。けれど、気軽に「きっと願いは叶うよ」なんて言えなくて、私は少しうつむいた。すると、神社のご祭神の説明が目に入った。
「……宇迦之御魂神《うがのみたまのかみ》と、伊弉冉尊《いざなみのみこと》だって」
私がつぶやくと、「何が」と月森くんは聞き返し、続けて、
「いざなみって聞いたことがある」
と言った。それから、
「あれ? でもいざなぎ? いざなみ? 何や、ややこしい……」
顔をしかめる。
「イザナミは女神さまで、イザナギはその旦那さんです」
説明にある文章を、私は読み上げた。月森くんの顔色を窺い、ためらいながらも続ける。
「でも、イザナミは死んじゃって、黄泉の国に行っちゃうんです。それをイザナギは追いかけるんですけど……」
「ああ、その話、知っとるかも」
すると、月森くんが反応した。
「黄泉国を出るまで振り返っちゃダメとか、そういう話やなかった? あれ? それともそれはギリシャ神話か何かやったっけ?」
さらに顔をしかめて考え込む。
「あ、えっと……イザナミは、『黄泉の神さまと話す間、私を見ないで下さい』って言うんだけど、イザナギは見ちゃうんですね。それで、怒ったイザナミが追いかけてくるっていう」
「ああ、で、黄泉比良坂に大きな石を置いて、イザナミを封じ込めた的なやつだっけ?」
月森くんがうなずく。
「よく知ってるね。私、日熊さんに教えてもらうまで知らなかった」
目を丸くして言うと、
「漫画に載っとった」
彼は照れたようにそう言った。
顔が赤くなったのを隠すようにそっぽを向いた姿は、少し子供っぽい。
「ギリシャ神話のほうは何やったっけ」
照れを隠すように早口で言う。
「えっと、それも死の国の話です」
知らず知らずのうちに、千本鳥居のほうを眺めながら私は言った。
「それも確か奥さんが死んじゃって、旦那さんが追いかけて……そうそう、毒蛇に噛まれたとか、そんなんじゃなかったっけ……」
「そうやった」
月森くんもうなずいた。
「毒蛇に噛まれて死んだのを、生き返らせに行くんや。で、何か死の国は地下にあって、そのトンネルみたいなとこを二人で地上まで上がるんやったな。で、振り向くなって言われとうけど、振り向く的な」
「あー、なんかすごい記憶が蘇ってきたかもしれないです」
きっと幼いころに本で読んだのだろう。細い線画が頭に浮かんでくる。
暗い道を、男の人が歩いている。その後ろには、妻である女の人がいるはずなのだが、死の国の神さまは、『彼女を現世に連れ帰りたいのなら、振り向いてはいけない、声を出してもいけない』と男に言う。
男は約束を守って地上への道を歩き始めるのだが、長く暗い道のりにふと不安になってしまう。妻はちゃんとついてきているのだろうか、疑いは徐々に膨らみ、男をむしばむ。もうすぐ地上だ、もうすぐ妻は生き返る、そう自分に言い聞かせても、後ろを確かめたくてたまらなくなる。
そして、いよいよ地上だというとき、男はついに不安に耐えきれなくなり、とうとう後ろを振り向いてしまう。
その瞬間。
妻はあっという間に死の国へ引き戻されてしまい、そして二度と夫である男と会うことは許されなかった――
幼心に刻まれた恐ろしさが、私の胸に蘇った。
妻はちゃんと男の後ろを歩いていたのだ。けれど、不安に負けた男は、彼女を永遠の死に閉じ込めてしまった。
あと少しだったのに――幼い私は二人を可哀想に思った。そして、自分がもし振り向くな、と言われたら、絶対に振り向かないでおこう、と奇妙な誓いを立てたのだった。
「でも、これ、イザナミとイザナギのお話に似てますね」
つぶやいて、私はなぜ無意識に千本鳥居の参道を眺めたのか、気がついた。
「どうしたん?」
月森くんがちらりと私を見る。
「えっと……」
変なこと言うやつだと思われるかな、一瞬、そんなふうに思ったが、結局私は参道を指した。
「あの参道。何となく、黄泉と現世を繋いでる道みたいだなと思って……」
反応を見るように月森くんを見ると、彼はやはり私の言葉を変だと思ったようだった。けど、優しさからか「まあ、似とるかも」と言ってくれる。
「そうですか、あはは……」
私の上滑ったような笑い声が、再び静けさの中に消えた。月森くんは困ったような、けれど、その実、何も気にしていないような顔をして、辺りを見回している。蝉が鳴いている。
この機会に、思い切って聞いてみようか。沈黙に、私はごくりと喉を鳴らした。
あの絵を描いたのは月森くんですか――それは単純な質問だ。けれど、何だか聞くのが怖いような気もする。例えば、絵のファンだから近づいてきたと思われたら、どうしたらいいのかわからないし、そうじゃなくても気味悪く感じないだろうか。
私が考えあぐねていると、すると月森くんはごそごそとズボンのポケットを探り、手を唐突に突き出した。手のひらには、二百円が乗っている。
「え、これ……」
私は、戸惑って彼を見返す。
「お揚げ代。何か、やっぱ払ってもらうのもあれじゃけぇ」
むすっとしたような顔でそっぽを向き、月森くんが言う。私は慌てて首を振った。
「あ、いいんです、ホントに。私が勝手に買っただけだから……今度会ったときにジュースおごって下さいって、さっきも……」
「いや、いま返しとかんと、次、いつ来るかわからんやろ」
怒ったように言う月森くんに、
「いいえ、私、毎日来てます」
私が言うと、彼はわけがわからないと言った顔をした。
それはそうだろう。高校生の女子が、毎日神社に来ているなんて、ちょっとよくわからない。
「ホントです。毎日、この時間に来てます」
しかし、私が力を込めて言うと、月森くんはようやく納得したようだった。それでも、出した手は引っ込めない。
「それでも、受け取ってや」
そう言うと、何を思ったか、御供物台の上にその二百円を置く。
「そんなところに置かれても……」
思わず言うと、
「君――……藤川さんが受け取らんのがいかんのや」
そう言って、くるりと踵を返す。君、ふと出た言葉が恥ずかしかったのだろうか、ほとんど駆けるように参道の方へ歩き出す。
帰るのだろうか?
私は咄嗟にその二百円を掴むと、彼の後を追った。ちょっと待って下さい、叫ぶと、彼は驚いたようにこちらを振り向く。どんなに遠くに捨てても自分の後をついてくる捨て犬を見るような表情だ。
「あの、でも、これ……」
二、三歩走っただけで息を切らせながら、私は二百円を差し出した。
「困ります、お揚げは百五十円だし」
「ええって。……五十円くらい」
「いいえ、ダメです」
「なんや。人に百五十円おごるのはよくて、自分が五十円多く返されるのは困るって、どういうことだよ」
「でも……」
意地の悪い顔をする彼に、確かに、私は思い直した。
「それなら、今度、五十円返しに行きます。えっと、お家はこの近くですか?」
「え? 家って……マジで?」
月森くんが心底呆れたような顔をする。私の目を正面から見る。しばらくそうしてから、私が本気だと気づいたのだろう。小さく首を振った。
「明日、僕もまた来るから」
「え? そうなんですか?」
驚いて、私は聞き返した。
行動を見るに、彼は私のようにお参りに来ているわけではないだろう。だというのに、明日も神社へ来る? どうしてなんだろう。
首をかしげる私は、あることをすっかり忘れていた。
そして、そのことと、私が握りしめている二百円こそが、彼が明日もここへくる理由に他ならなかったのだった。