さよなら、もう一人のわたし
「千春も用事がなければ来てほしかったかな」
「誰が用事って?」

 尚志さんは不思議そうにわたしを見た。

「千春が」

 わたしの言葉を軽く笑う。

「あいつは暇そうに俺を玄関先で見送っていたよ。嫌だから逃げたんだよ」
「伯父さんに会うのがですか?」
「いや、伯父から説得されるのがね」

 彼女は映画の話が自分に来ていたと言っていたのを思い出した。
 だから彼女は嫌がったのか。

 尚志さんが扉を開け、わたしを中に導いた。
 そして、尚志さんは再び鍵を閉めた。

 このビルは何なんだろう。
 わたしは尚志さんがバッグの中に放り込んだ鍵を見ながら、気が重くなってきた。

 エレベーターを見る限り、五階建てのビルのようだ。わたしはエレベーターを上がるのかと思い、エレベーターの前に立つが、尚志さんが体温の高い手でわたしの腕をつかんだ。不意に胸が高鳴る。

「階段でいい? 二階だから」

 尚志さんの淡々とした口調を聞き、意識したのを恥ずかしく感じていた。
 その気持ちをごまかすために、彼から目をそらし、首を縦に振る。

 そして、エレベーターの奥にある階段を上がることにした。
 階段の電気は消えていて、窓から太陽の光がわずかに差し込むだけだった。
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