さよなら、もう一人のわたし
「お母さんはどうしている?」
「おばあちゃんから譲り受けた喫茶店を経営しています」

 わたしは事情が呑み込めないながらも、そう答えた。
 彼は何かを言いかけ、首を横に振る。

「何でもない。今日は来てくれてありがとう」

 彼なりの誠意の表れだったのだろう。
 わたしはもう一度頭を下げると、部屋を出た。
 部屋の外では尚志さんがぼんやりと窓を眺めていた。
 彼は視線に気づいたのかわたしを見る。

「終わった?」

 わたしは頷く。
 だめなことは予想できた。
 彼が見ているのはあまりに高い存在だったからだ。
 後悔はなかった。

「事務所はこのビルの中にあるんですか?」
「そうだよ。一応五階にもあるけど、ほとんど使っていない。見ていく?」

「いいです」

 わたしは首を横に振る。
 もう関係のない世界の話なのだ。

 だからあまり関わる必要もない。これ以上知ると未練が残ってしまうからだ。
 あの映画に出られるかもしれない。そんな夢が砕け散り、女優になりたいと思う気持ちさえ、波が引くかのようにさっと引いていった。

「帰りましょうか」

 立ち去ろうとしたわたしの腕を尚志さんが掴んだ。

「それなら今日つきあってよ」
「つきあうって、あの」
「別に無理にとは言わないけど」

 さっきまで落ち込んでいたのに心臓がどきどきしていた。彼と関わると、わたしがわたしでなくなる気がする。

「分かりました」

 わたしは声が上ずるのを抑えながらそう答えていた。


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