奏 〜Fantasia for piano〜
「俺の方こそ、ごめん。母さんは疲れてるんだよ。もう帰っていいから」
「仕事の心配?
今日のシフトは十八時からだからーー」
「いや、帰って休んで。俺はひとりで大丈夫。
入院生活には慣れたよ」
奏は少しだけ微笑んで見せた。
年齢以上に大人びて、どこか悲しい笑い方。
奏のお母さんは「また明日ね」と言い置いて、寂しそうな顔して病院から出て行った。
静かになった病室で、私と奏のふたりきり。
奏はゴミ箱に捨てられた雑誌に視線を止めている。
夕日は変わらず私を素通りして、悲しい奏をオレンジ色の光で温めていた。
私の今の心境は、奏のお母さん寄りだ。
アラン・ベルトワーズというピアニストに罪はなくても、憎らしく思う。
奏はピアノを弾けなくなったというのに、加害者の息子が世界で活躍しているなんて、許せないと思ってしまう。
奏はどうして怒らないの?
悔しくないの?
「奏……」
届かないと分かっていても、声に出して呼びかけてみた。
すると、雑誌を見つめる奏の瞳から涙が溢れ、目尻から頬を伝う。
透明な雫がポタポタと、シーツに染みを作っていった。