奏 〜Fantasia for piano〜

奏は掴んでいた私の腕を離し、先にアコールに入って行く。

その後について五日ぶりに来店した私を、マスターは両手を開いて歓迎してくれた。


今日座ったのは、カウンター席。

テーブル席に見知らぬ女性ふたり組がいて、カウンターにもひとり、おじさんの先客がいた。

その人は前に私のピアノを聴いてくれたマスターの音楽仲間で、笑顔で話しかけてくる。


「この前のドビュッシーの『月の光』、とてもよかったよ。ショパンは弾けるかな? 珈琲の後に一曲頼むよ。お代はマスター特製ブルーベリーマフィンでどう?」


私はいいけど、奏が……。

奏は黙々と、私のためにカフェラテを淹れている。

マスターがウインク付きで、美味しそうなブルーベリーマフィンの皿を、私の前に置いてくれた。


弾かなきゃいけない流れになって、不安に思う。

また奏を傷つけてしまうのは、嫌だな……。


「お待たせしました」と奏がカウンター裏から手を伸ばし、マフィンの横にカフェラテを置いた。

今日のラテアートは、三度目のウサギの絵。

笑顔の可愛いウサギが、ト音記号を抱いていて……。

ハッとして奏を見たけど、視線は合わなかった。

オーブンを開け、焼き上がったピザトーストを皿に乗せて、テーブル席の女性客へと運んでいる。


ト音記号と笑顔のウサギ。

これは、奏の前でもピアノの話題を出していいよという意味だろうか?

私達の関係は、少しは前進してる?

五日前、思い切って奏にぶつかってみたことは、間違いじゃなかったのかな……。


< 127 / 264 >

この作品をシェア

pagetop