奏 〜Fantasia for piano〜
奏は掴んでいた私の腕を離し、先にアコールに入って行く。
その後について五日ぶりに来店した私を、マスターは両手を開いて歓迎してくれた。
今日座ったのは、カウンター席。
テーブル席に見知らぬ女性ふたり組がいて、カウンターにもひとり、おじさんの先客がいた。
その人は前に私のピアノを聴いてくれたマスターの音楽仲間で、笑顔で話しかけてくる。
「この前のドビュッシーの『月の光』、とてもよかったよ。ショパンは弾けるかな? 珈琲の後に一曲頼むよ。お代はマスター特製ブルーベリーマフィンでどう?」
私はいいけど、奏が……。
奏は黙々と、私のためにカフェラテを淹れている。
マスターがウインク付きで、美味しそうなブルーベリーマフィンの皿を、私の前に置いてくれた。
弾かなきゃいけない流れになって、不安に思う。
また奏を傷つけてしまうのは、嫌だな……。
「お待たせしました」と奏がカウンター裏から手を伸ばし、マフィンの横にカフェラテを置いた。
今日のラテアートは、三度目のウサギの絵。
笑顔の可愛いウサギが、ト音記号を抱いていて……。
ハッとして奏を見たけど、視線は合わなかった。
オーブンを開け、焼き上がったピザトーストを皿に乗せて、テーブル席の女性客へと運んでいる。
ト音記号と笑顔のウサギ。
これは、奏の前でもピアノの話題を出していいよという意味だろうか?
私達の関係は、少しは前進してる?
五日前、思い切って奏にぶつかってみたことは、間違いじゃなかったのかな……。