君の声が聞こえる
(ああどうしよう、困ってる。ほとんど顔に出さない安西さんが)
 どうしよう、と思っても駆琉は金縛りにあったみたいに動けなかった。

 助けたい、でも、はっきりと嫌われている自分が助けたって迷惑なだけじゃないのか?
 自分なんかが助けられるはずがない。
 だって彼女は完璧だ。何もかもさらりとこなしてしまうし、勇介だって彼女は完璧すぎるといっていたし。

 言い訳を重ねて、駆琉は彩花の心の声に聞こえないふりをする。こんな声が聞こえたって、何もいいことはない。
 自分は彩花のことを何もわからないし、彩花に心の声が聞こえるなんていえるわけもないし。
(いえない、なら知らないなら、聞こえてないってことと同じだ)
 大丈夫。安西さんは大丈夫。
 完璧だもの。何もかもできるもの。

「ねぇお願い! 安西さん! スイミング同好会を助けて! 入ってくれる言うまでやめへんから!」
 スイミング同好会の会長は続ける。
 突然のことに呆然と見つめているばかりだった教師が動き出す。ほらやっぱり。自分が彩花を助けなくたってーーー……。
 駆琉が安心して息を吐き出してもなお、彩花の声が落ちてきた。
『なんなの、私、もう、水泳、やめたのに。昨日から、私、水泳やめたのに、私が、私がどんな思いで、』
 駆琉は彩花を見た。
 顔が真っ赤で、辛そうで、苦しくて。

『水泳、大好きだった、のに』

 聞いたことのない彩花の悲痛な声を聞いたとき、駆琉の心の中を言葉にできない感情が充満した。
 うまく息ができなかった。
 彩花の感情が自分の胸に流れ込んできているようで、熱湯をかけられたかのように身体の芯から熱くなる。
 悲しい。恥ずかしい。苦しい。辛い。
 これが自分の感情なのか、それとも彩花の感情なのか駆琉にはわからなかった。けれど気が付いたときには、駆琉は立ち上がっていた。

「やっ!」
 スイミング同好会の会長が、駆琉を見る。彩花が駆琉を見る。クラスメートも、他のクラスの人間も。教師だって、部活紹介をしている先輩達だって、みんな。
 目眩がしそうになった。声がでない。思わず、駆琉は頭の中で「あいうえお」を唱える。
 あいうえお、かきくけこ。
 彩花の真っ赤な顔を、胸に充満する感情を、頭の中に落ちてきた悲痛な声を。
 それらを思い出すと、駆琉は目の前がはっきりとした気持ちになった。

「やめてあげてください! あ、安西さん、困ってるから」
 大声を出したつもりだったのに、駆琉の口からほとんど声は言葉になってくれなかった。
 格好よく決めたかったのに、声も足も手も震える。緊張のあまり、顔や耳が熱くなるのを感じた。

(多分あとほんの数秒待っていたら、先生達が会長さんを止めていただろう)
 それでも駆琉は、彩花のあんな声をもう1秒だって聞いていたくないと思った。自分が感じたような感情を彩花も感じていると思ったらもう、我慢できなくなった。
 『水泳、大好きだったのに』。
 聞いたことがない、声だった。
 弱々しくて、悲しくて、痛かった。
 そんな彩花の声が落ちてきた瞬間に、駆琉の心の中の弱い部分が何かに握りつぶされたような気持ちになった。

 彩花の真っ白な時間を、駆琉だけは知っている。何も怖くない、何も考えなくてもいい、ただただ幸福なだけの時間を。
 その時間を過ごすために、彼女がどれだけおまじないを唱えていたかも知っている。
 聞いたことなんてないし、彩花が何故水泳をやめたのかもしれない。彩花のことはほとんど知らない。彼女の名前だって昨日はじめて知ったばかりだ。

 水泳をやっていたことも知らない。
 何も知らない。わかってる。
 自分は魅力的ではないことも、よくわかってる。
 格好つけようとしても声が震えるし、どんなことをしても情けないこともわかってる。

(けれど僕は、僕だけが、安西さんがどれだけいま恥ずかしいか嫌がっているか、どれだけ苦しい思いをしているかがわかるんだ)
 そう思ったとき、駆琉はもう無意識に立ち上がっていた。

「あ、そ、そうやんな。ごめん、安西さん」
 呆然と駆琉を見返していたスイミング同好会の会長が、はたと我にかえった。折り畳んでいた身体を起こし、彼女は改めて彩花に頭を下げる。
「いえその、大丈夫です」
 彩花が大人びた笑顔で微笑んだ。
「ほんまにごめんな、注目させてもたわ」
「いえ本当に大丈夫です」
 髪を耳にかけ、彩花は微笑む。彩花の何事もなかったかのような笑顔と態度にポカンとし、駆琉は無言のまま腰を下ろした。
「駆琉っち、さっきのマジかっこよかったよ」
 名前の順の並びのため、隣に腰かける勇介がそういって駆琉の肩を叩いた。駆琉を指差し、いつものように人懐っこい笑顔で「魅力的!」と、からかうような誉めるような言葉を投げ掛けてくれたが駆琉は作り笑いを返すしかできなかった。

 彩花の声は聞こえなかったが、周りの人に声をかけられて「困っちゃったね」とかいって笑っている。やっぱり彼女は綺麗で完璧で、自分が守ってあげようなんてあまりにもバカバカしい。
 ああ。
(こんなこと、しなきゃよかった)
 けれどあのときはどうしてもーーー……君の声が聞こえたから。君の声が聞こえるのは僕しかいないと思ったら、どうしても。
(どうしても、何かをしたかったんだ)
 恥ずかしいね、と駆琉は眉を寄せる。

「おい水泳部!」
「もう水泳部やないですーごめんなさいー!」
 スイミング同好会の会長が教師に謝る声を、駆琉はどこか遠くで聞いた。
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