君の声が聞こえる
「大会新を出して、みんなから注目を浴びて……水泳で有名な花園高校からもスカウトが来て、みんなから期待されて……」
「花園高校? 聞いたことある。オリンピック選手を何人も出してるとこだよね」
そうそう、と若葉が頷いた。
中学時代は文化部、今も部活に入るつもりもなくて体育会系とは縁のない駆琉にはピンとこなかったが、若葉は「花園高校って、花園高校って、マジか」と繰り返している。よっぽど有名で、凄い高校なのだろう。
「いやでも、あのときはほんっまにスゴかったよね。安西さんって綺麗やし、スラーってしてはるやん? 今で言うご当地アイドルみたいになったもんなぁ」
「そうです、それでーーー……」
希子は言いにくそうに、何処か苦しげだった。
まるで自分のことみたいに、本当に本当に苦しそうだった。
「彩花は、泳げなくなったんです。泳げば泳ぐほどにタイムが落ちていって、みんなの期待は大きくなって。でも泳ぐぼどに遅くなって、みんなの期待を裏切って」
(ああ、どんな気持ちだったんだろう)
希子は今にも泣きそうだった。
駆琉はただ、彩花の気持ちに思いを馳せるーーー……彼女の悲痛な声を、思い出した。
『水泳が、大好きだったのに』
真っ白な世界。
彼女はそこで泳ぐ。
「あまりに彩花が苦しそうに泳ぐから、私が言ったんです。『もう水泳なんかやめちゃえば?』って。そして彩花は本当に、中3の夏に水泳をやめました……受験勉強を理由にして。花園高校も、行くのをやめて」
まるで自分のことみたいだ。
希子の顔色は酷く悪かった、悪すぎるくらいに。
「水泳部のない高校を選んだ時点で、彩花はもう水泳を諦めたんですよ」
きっぱりと希子は言い切った。
その言葉には何か他の思いが詰まっているような気がしたけれど、それが「何か」は駆琉にははっきりとわからなかった。
(確かにうちの高校は水泳部はなくて、スイミング同好会しかないみたいだけど……本当に、安西さんは水泳を諦めたのかな)
確かに彩花も「やめた」といった、水泳はやめたと思ってた。
けれど彼女が泳いでいたのは確かだ。
あの空白に身を任せ、呪文を唱えてから泳いでた。「ダメだ」とそれを遮ったのだって、もしかしたらーーー……そのときは意味がわからなかったけれど、彼女はまだ記録を追っているのかもしれない。
水泳を諦めてないのかもしれない。
「だから、彩花はもう水泳をやりません!」
そのとき駆琉は、さっき希子の言葉に感じた「何か」に気付いた。
(そうだ根山さんは、何だか願ってるみたいに聞こえる。何でだろ)
いや、そうじゃなくって。
駆琉は頭を振り、声を出そうとする。彩花はもしかしたらまだ、水泳を諦めてないのかもしれない、と。
「話はよくわかりました」
駆琉が声をあげるより早く、若葉が言い切る。きっぱりとした若葉の物言いにさすがに割って入れず、駆琉は口を閉ざした。
「じゃあ、彩花の勧誘をやめ……」
「それはやめない! 私は安西さんからはっきりと諦めたって、水泳はもうやらない、大嫌いって言われない限り、安西さんに絶対スイミング同好会に入ってもらう!」
今度は若葉が希子を指差した。
「何でですか」と希子がテーブルを叩きながら立ち上がった、希子からしてみたら言いにくいことを言ったのに、という気持ちなんだろう。
「何でも! とにかく絶対に絶対にぜーーったいに! 安西さんはスイミング同好会に入ってもらう! 以上!」
言いたいことを言い切ると、若葉は代金だけ置いてファミレスから出て行った。
希子が「待ってください」と叫んでも振り返らない。本当に自分の言いたいことだけ言って、清々しいまでにあっさりと出て行く。
「なんなの、あの人!」
激怒した希子はメニューでテーブルを叩きながら、甲高い声をあげた。
周囲の視線を気にしつつ、駆琉は「自由な人だね」なんて感想にもなっていない感想を述べる。
「彩花は水泳を諦めたのに! 彩花はもう水泳をやらないのに!」
ほらやっぱり、希子はまるで願っているみたいだ。
本当にそうなのかな、と言いたかったが、今こんなにも荒れている状況で駆琉は口に出せないと思った。
(それに安西さんの親友が言うなら、きっとそうなんだろうね。僕は安西さんのことを何も知らないし……)
思い上がったってロクなことがないことは、この2日間で駆琉は痛いほどわかっていた。
彩花の隣に立つほど魅力的な男になりたい、でもなり方がわからない。ならば、変なことを言って彩花の親友に嫌われることだけは避けた方がいい。
(僕は何もーーー……)
『あああいいいうううえええおおお、あいうえお』
彩花の声が落ちてくる。
空白の世界が広がる。
ああ、彼女はまた泳いでる。
「ーーー……本当に、それだけなのかな」
「え?」
(ダメだ、ダメだ、こんなことを言ったらダメだ)
わかってる。
彩花にもっと嫌われてしまうかもしれない、ってことを。彩花の親友に嫌われてしまうかもしれない、ってことを。
けれどーーー……彩花は今、泳いでるんだ。何も怖くない、何も恐れることのない、何も心配もない、あの真っ白な世界で。
彼女は泳いでる。
彼女の声が聞こえる。
彼女は水泳を愛してる。
「安西さんが苦しそうに泳ぐから、水泳をやめたらって根山さんが言ったんだよね。水泳をやめたのは安西さんだよ、それなのに」
彩花がどれほど苦しんだのかを、駆琉は知らない。
それでも言わずにはいられなかった。
彩花の心の声が聞こえる、彩花は泳いでる。やめたと言ったのに、大好きだったのにと言ったのに、まだ泳いでる。
「それなのに何で、根山さんは安西さんに水泳をやめたままでいてほしいって願ってるの?」
希子が唇を噛んだ。
今にも泣き出すのではないか、と駆琉は思った。
「…………キコのせいなの」
彼女が震える声で漏らした懺悔を聞いて、駆琉は誓った。彩花の元に行こう、と。きっと彼女はまた、プールにいるはずだから。
■
「安西さん」
桜を見上げていた彩花が振り返る。
濡れたままの彼女の髪からは、いつだって塩素の匂いがした。
自分の名前を呼んだのが駆琉だとわかり、彩花は不愉快そうに眉を寄せる。
「……なに?」
「僕は、50メートル泳げないんだ」
薄桃色の桜の花びらが散る。
唐突に駆琉がそんなことを言うものだから、彩花の眉間にシワが寄った。「それがどうしたの」と、冷たい声。
「そもそも潜ることもできない、泳げない。水が怖い」
駆琉は続ける。小さく息を吸って、頭の中で呪文を唱えた。「あいうえお」。
「安西さんは、水泳が嫌いですか」
彼女の黒い髪が風に揺れた。
ざあ、と音を立てて吹いた風は花びらを巻き上げる。黒い瞳が駆琉をとらえていた。
(聞かせてくれ、お願いだから。君の声を聞かせて)
常に心の声が聞こえる訳じゃない。
だから駆琉は願った、強く強く。どうしてもその答えを知りたかった。
『ーーー……愛してるよ』
顔にかかる髪を耳にかける彩花の声が落ちてくる。泣き出しそうな声。後悔している声。彼女の声。
実際の彼女は何も言わない。いや、言えないんだと駆琉は思った。彩花は唇を噛み、拳を作っていた。
(そうでもしないと泣いてしまうから、声が震えるから、僕に弱味を見せてしまうから)
でも大丈夫、聞こえるよ。君の声が。
ああ、その声が。その声を。その声が。
「僕と取引しませんか。水が怖くて潜ることすらできない僕が、1週間で50メートル泳げるようになったら」
あなたのその答えを、
この耳で聞くことができるのならば
何だってしてみせる。
「スイミング同好会に入ってください」
水泳を愛してる、ともう一度あなたが言えるように。胸を張って誇れるように。
水泳が大好きだったのにと、もう後悔しないように。思ったりなんてしないように。
駆琉と彩花は見つめあった。
桜吹雪のせいで世界は真っ白で、まるでーーー……彩花の心の中にいるみたいだ、と駆琉は思う。
「いいよ、できるのならばやってみたら」
こうして運命は回り始めた。
「花園高校? 聞いたことある。オリンピック選手を何人も出してるとこだよね」
そうそう、と若葉が頷いた。
中学時代は文化部、今も部活に入るつもりもなくて体育会系とは縁のない駆琉にはピンとこなかったが、若葉は「花園高校って、花園高校って、マジか」と繰り返している。よっぽど有名で、凄い高校なのだろう。
「いやでも、あのときはほんっまにスゴかったよね。安西さんって綺麗やし、スラーってしてはるやん? 今で言うご当地アイドルみたいになったもんなぁ」
「そうです、それでーーー……」
希子は言いにくそうに、何処か苦しげだった。
まるで自分のことみたいに、本当に本当に苦しそうだった。
「彩花は、泳げなくなったんです。泳げば泳ぐほどにタイムが落ちていって、みんなの期待は大きくなって。でも泳ぐぼどに遅くなって、みんなの期待を裏切って」
(ああ、どんな気持ちだったんだろう)
希子は今にも泣きそうだった。
駆琉はただ、彩花の気持ちに思いを馳せるーーー……彼女の悲痛な声を、思い出した。
『水泳が、大好きだったのに』
真っ白な世界。
彼女はそこで泳ぐ。
「あまりに彩花が苦しそうに泳ぐから、私が言ったんです。『もう水泳なんかやめちゃえば?』って。そして彩花は本当に、中3の夏に水泳をやめました……受験勉強を理由にして。花園高校も、行くのをやめて」
まるで自分のことみたいだ。
希子の顔色は酷く悪かった、悪すぎるくらいに。
「水泳部のない高校を選んだ時点で、彩花はもう水泳を諦めたんですよ」
きっぱりと希子は言い切った。
その言葉には何か他の思いが詰まっているような気がしたけれど、それが「何か」は駆琉にははっきりとわからなかった。
(確かにうちの高校は水泳部はなくて、スイミング同好会しかないみたいだけど……本当に、安西さんは水泳を諦めたのかな)
確かに彩花も「やめた」といった、水泳はやめたと思ってた。
けれど彼女が泳いでいたのは確かだ。
あの空白に身を任せ、呪文を唱えてから泳いでた。「ダメだ」とそれを遮ったのだって、もしかしたらーーー……そのときは意味がわからなかったけれど、彼女はまだ記録を追っているのかもしれない。
水泳を諦めてないのかもしれない。
「だから、彩花はもう水泳をやりません!」
そのとき駆琉は、さっき希子の言葉に感じた「何か」に気付いた。
(そうだ根山さんは、何だか願ってるみたいに聞こえる。何でだろ)
いや、そうじゃなくって。
駆琉は頭を振り、声を出そうとする。彩花はもしかしたらまだ、水泳を諦めてないのかもしれない、と。
「話はよくわかりました」
駆琉が声をあげるより早く、若葉が言い切る。きっぱりとした若葉の物言いにさすがに割って入れず、駆琉は口を閉ざした。
「じゃあ、彩花の勧誘をやめ……」
「それはやめない! 私は安西さんからはっきりと諦めたって、水泳はもうやらない、大嫌いって言われない限り、安西さんに絶対スイミング同好会に入ってもらう!」
今度は若葉が希子を指差した。
「何でですか」と希子がテーブルを叩きながら立ち上がった、希子からしてみたら言いにくいことを言ったのに、という気持ちなんだろう。
「何でも! とにかく絶対に絶対にぜーーったいに! 安西さんはスイミング同好会に入ってもらう! 以上!」
言いたいことを言い切ると、若葉は代金だけ置いてファミレスから出て行った。
希子が「待ってください」と叫んでも振り返らない。本当に自分の言いたいことだけ言って、清々しいまでにあっさりと出て行く。
「なんなの、あの人!」
激怒した希子はメニューでテーブルを叩きながら、甲高い声をあげた。
周囲の視線を気にしつつ、駆琉は「自由な人だね」なんて感想にもなっていない感想を述べる。
「彩花は水泳を諦めたのに! 彩花はもう水泳をやらないのに!」
ほらやっぱり、希子はまるで願っているみたいだ。
本当にそうなのかな、と言いたかったが、今こんなにも荒れている状況で駆琉は口に出せないと思った。
(それに安西さんの親友が言うなら、きっとそうなんだろうね。僕は安西さんのことを何も知らないし……)
思い上がったってロクなことがないことは、この2日間で駆琉は痛いほどわかっていた。
彩花の隣に立つほど魅力的な男になりたい、でもなり方がわからない。ならば、変なことを言って彩花の親友に嫌われることだけは避けた方がいい。
(僕は何もーーー……)
『あああいいいうううえええおおお、あいうえお』
彩花の声が落ちてくる。
空白の世界が広がる。
ああ、彼女はまた泳いでる。
「ーーー……本当に、それだけなのかな」
「え?」
(ダメだ、ダメだ、こんなことを言ったらダメだ)
わかってる。
彩花にもっと嫌われてしまうかもしれない、ってことを。彩花の親友に嫌われてしまうかもしれない、ってことを。
けれどーーー……彩花は今、泳いでるんだ。何も怖くない、何も恐れることのない、何も心配もない、あの真っ白な世界で。
彼女は泳いでる。
彼女の声が聞こえる。
彼女は水泳を愛してる。
「安西さんが苦しそうに泳ぐから、水泳をやめたらって根山さんが言ったんだよね。水泳をやめたのは安西さんだよ、それなのに」
彩花がどれほど苦しんだのかを、駆琉は知らない。
それでも言わずにはいられなかった。
彩花の心の声が聞こえる、彩花は泳いでる。やめたと言ったのに、大好きだったのにと言ったのに、まだ泳いでる。
「それなのに何で、根山さんは安西さんに水泳をやめたままでいてほしいって願ってるの?」
希子が唇を噛んだ。
今にも泣き出すのではないか、と駆琉は思った。
「…………キコのせいなの」
彼女が震える声で漏らした懺悔を聞いて、駆琉は誓った。彩花の元に行こう、と。きっと彼女はまた、プールにいるはずだから。
■
「安西さん」
桜を見上げていた彩花が振り返る。
濡れたままの彼女の髪からは、いつだって塩素の匂いがした。
自分の名前を呼んだのが駆琉だとわかり、彩花は不愉快そうに眉を寄せる。
「……なに?」
「僕は、50メートル泳げないんだ」
薄桃色の桜の花びらが散る。
唐突に駆琉がそんなことを言うものだから、彩花の眉間にシワが寄った。「それがどうしたの」と、冷たい声。
「そもそも潜ることもできない、泳げない。水が怖い」
駆琉は続ける。小さく息を吸って、頭の中で呪文を唱えた。「あいうえお」。
「安西さんは、水泳が嫌いですか」
彼女の黒い髪が風に揺れた。
ざあ、と音を立てて吹いた風は花びらを巻き上げる。黒い瞳が駆琉をとらえていた。
(聞かせてくれ、お願いだから。君の声を聞かせて)
常に心の声が聞こえる訳じゃない。
だから駆琉は願った、強く強く。どうしてもその答えを知りたかった。
『ーーー……愛してるよ』
顔にかかる髪を耳にかける彩花の声が落ちてくる。泣き出しそうな声。後悔している声。彼女の声。
実際の彼女は何も言わない。いや、言えないんだと駆琉は思った。彩花は唇を噛み、拳を作っていた。
(そうでもしないと泣いてしまうから、声が震えるから、僕に弱味を見せてしまうから)
でも大丈夫、聞こえるよ。君の声が。
ああ、その声が。その声を。その声が。
「僕と取引しませんか。水が怖くて潜ることすらできない僕が、1週間で50メートル泳げるようになったら」
あなたのその答えを、
この耳で聞くことができるのならば
何だってしてみせる。
「スイミング同好会に入ってください」
水泳を愛してる、ともう一度あなたが言えるように。胸を張って誇れるように。
水泳が大好きだったのにと、もう後悔しないように。思ったりなんてしないように。
駆琉と彩花は見つめあった。
桜吹雪のせいで世界は真っ白で、まるでーーー……彩花の心の中にいるみたいだ、と駆琉は思う。
「いいよ、できるのならばやってみたら」
こうして運命は回り始めた。