君の声が聞こえる
「あ」
「……あ」
 とにかく早く泳ごうと、学校から全力疾走した駆琉が体育館のプールに到着してすぐ。
 もしかしたらいるかもしれない、と思っていた彩花に出入り口で出会ってしまったのはもう、運命としか言いようがないなと駆琉は思う。
 まだ体育館に入ってもいないのに、まさか出会うなんて。あんなにも美しく泳ぐ彩花の前で泳げないなんて恥ずかしい、と思ったばかりだ。
 運命の人と言うのは、こういうときばかりは面倒だな、と駆琉は額の汗をぬぐった。

「あ、安西、さんも、お、よぐ、の」
 全力疾走したせいで息が切れる。
 ゼェゼェしたまま尋ねると、彩花はそんな駆琉を上から下までじぃっと見てから小さく聞き返した。
「泳ぐの?」
「え、僕、そう」
「ここで?」
 声に出さずに駆琉は頷く。
 息を整えるために深呼吸をしながら、水着やらの一式が入ったカバンを彩花に見せた。彩花はますます眉を寄せる。

(ああ、デジャヴ)
 桜吹雪の中、彩花はああして眉を寄せていた。
 「安西さんは水泳が嫌いですか」、そう尋ねた駆琉を彩花はしっかりと見返した。眉を寄せ、拳を作って、唇を噛みながら。彩花は泣きたくなる感情を抑え込んでいた。
 それでも駆琉にだけは聞こえる。
 彩花が心の中ではっきりと、「愛しているよ」と即答したことを。
 未だ彼女が水泳を愛していることを駆琉だけが知っている。だからそのためにも、泳げるようにならなくてはいけない。

(そうだ、行かなきゃ)
 駆琉はカバンを握り直し、彩花に笑いかけた。時間がない。こんなところで立ち話をしている場合じゃない。
「じゃあ安西さん、プールで……」
 会いましょう、と言う前に。
 何か思い悩んでいた彩花がさらりと言った。
「ここ。ある程度泳げる人じゃないと、そもそもプールに入ることもできないんだけど」
「えっ!?」
 思っていた以上に大きな声が出た。
 「知らなかったんだ」と彩花は自分にだけしか聞こえないような声で囁き、肩にかけていたスクールバッグの中からピンク色の紙を取り出す。
 彩花から差し出されたそれを受け取った駆琉は、タイトルを読み上げた。

「『プール利用者の方へ』」
「その3番目。ここのプールは水深2メートルもあるから、最初の利用の際は泳げるかのテストをしてもらうって書いてあるでしょ。テストに合格しないとプールを利用できないんだよ」
「……ほ、ほんとだ……」
 ピンクの紙には確かに、泳げない方の利用は断る旨まで記されてある。
 その紙を握ったまま、駆琉は本日2度目のがっくりを体感した。全力疾走してきた疲れもあり、その場に座り込む。
「うわーーーマジかーーー」
「ここは飛び込み台もある本格的なプールだから……」
 慰めなのか報告なのか、彩花が告げる。その声にはどことなく、同情するような響きがあった。
 ああ、と駆琉は頭を抱える。

「どうしよーー……僕まだ、水に顔が浸けれるようになったくらいなのに……スイミング同好会にも断られちゃったし……」
 50メートル泳げるようになったらスイミング同好会に入ってください、と取引をしている相手の前で言う台詞ではない。
 それでもスイミング同好会に断られ、このプールで泳げないとなれば、駆琉にはもうとうしたらいいかわからなかった。
 他に知っているプールはない。
 そもそも、家から近いと言うのにここにプールがあることも高校に入学してから知ったくらいだ。
(水が苦手だからプールが何処にあるかなんて意識したことないよ、僕……)
 どうしよう。
 水深2メートルの本格的なプールですぐに泳げるか、と言ったら頷けなかったが、自分はここしか知らないのだ。
 若葉にも断られ、プールもなく、駆琉はもうどうすればいいかわからなかった。

「……ここには何で来たの?」
 しゃがみこんだままで、どうしようと唸る駆琉の頭の上に、彩花の問いが落ちてくる。
 え、と声をあげて見上げると、駆琉を見下ろしていた彩花の深い黒の瞳と目が合った。ドキリ、と心臓が鳴る。
(これは多分、ビックリしたからだ)
「あ、歩いてだけど」
「そう」
 髪を耳にかけながら、彩花は頷いて辺りを見渡した。
 ドキドキ。彩花の横顔を見つめているだけなのに駆琉の心臓は鼓動を打つ。驚きすぎだろ、と駆琉は自分の心臓にクレームを入れた。
(それにしたって、何で急に僕が何で来たかなんて……)
 そう思っているとタイミング良く彩花が駆琉を見て、ニッと笑った。
 悪巧みを思い付いたイタズラっ子のようなその笑みは、お嬢様みたいな彩花のイメージとは全く違ってーーー……

「君、校則は厳守するタイプ?」

 酷く、可愛かった。
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