君の声が聞こえる


「いたっ」

 自転車が小石を踏んだ。
 ガタン、と振動が伝わってくる。
 痛くなんてなかったのに、駆琉は反射的に声をあげてしまった。その声に、彩花が肩越しに後ろを向く。
「大丈夫?」
「あ、うん」
 風が頬を撫でる。
 彩花の黒い髪が揺れ、乱れる。まるで風と踊っているように見えた。
「ちゃんと掴まってて」
 前を向いた彩花の声が、風と一緒にやって来る。
 掴まってて、って言ったって。
 駆琉は自分の手を見下ろした。
「つかま、ってる」
 シャツだけ。
 彼女の細い腰に自分が手を回す、と考えただけで心臓が痛い。肩に手をかけるーーー……とも思って彩花の肩をチラリと見る。
 揺れている黒い髪のせいで見え隠れする彩花の肩は、想像していた以上に細かった。それに触れるなんて、まるで悪いことのように思える。
 駆琉は息を吐き出した。
(というかこれ、普通は逆だよな)
 自転車を漕ぐ彩花と、後ろに乗る駆琉。
 眉を寄せ、駆琉はついさっきのことを思い出す。

 総合体育館のプールの前。
 「校則は厳守するタイプ?」。イタズラっ子のように笑う彩花の問いに首を振ったら、彼女は駐輪場に駆琉を案内した。赤い自転車のカゴにカバンを突っ込みながら、彼女は後ろを指差す。
『乗って』
『いやでも』
『イッチュウ……第一中学の近くにプールあるから。送ってく』
『で、でも遠いし』
『いーから』
『せ、せめて漕ぐのは僕が……』
 駆琉を睨み付けた彼女が、改めて自転車の後ろを指差した。ビシ、と効果音が聞こえてきそうなほどの勢いで。

『乗らないならここに置いてく』

 恐ろしい迫力だった。
 スレンダーな彼女のどこにそんな迫力が詰まっているのだろう、と不思議になるほどの迫力。
 仁王立ちする彼女に睨まれ、はい、という返事以外を誰が言えるというのだ。もちろん駆琉は「はい」と元気良く返事をし、後ろに乗った。

「あの、安西さん。やっぱり僕が漕ごうか?」
「学校から走って来ただけで息切れするような人がなにいってんの」
「す、すみません」
 図書館や総合体育館と第一中学は、駆琉や彩花が通う東雲学園を挟んで真逆にある。
 第一中学の周りは坂が多いし、このままだと大変なのではーーー……迷惑をかけているばかりで、駆琉は自分が嫌になった。
(安西さんはあのまま泳げたのに、悪いことしたな。僕に体力がないから自転車漕がせちゃって、怒ってるみたいだし……)
 風が頬に当たる。黒い髪が靡いてる。

『気を悪くさせたかな』
 彩花の声が落ちてきた。
 近くに彩花がいるせいで、一瞬だけ目の前の彼女が話しているように聞こえた。
 けれど彼女は前を向いている、話している気配はない。
(心の声だ、僕にしか聞こえない)
 本当ならば、聞こえない声。
『でもイッチュウの周りは坂だらけだし』
 皆が彼女を完璧だという。
 完璧すぎてつまらない、完璧すぎて息ができない、苦手だという。
『まだ息切れしてたし、泳ぐには体力がいるから。泳ぎたいっていうのに泳げないのは可哀想』
 泳げなくなった、という。
 水泳が嫌いになったのだ、と勘違いしている人もきっといるだろう。
(でも、でも安西さんは……)

『せっかく水泳をするつもりになったのに、泳ぐ場所がないから諦めるなんて許せない』

 こんなにも水泳が好きだ。
(怒ってるみたい、なんて思ってごめんね)
 彩花は完璧なんかじゃない、それがわかるのは自分だけで。
 駆琉は彼女の後ろ姿を見つめながら、ほんの少しだけ笑った。
『たてちつてとたと、なねにぬねのなの』
(何か呪文唱えてる……)
 緊張をほぐすため?
 自転車の二人乗りをするときに呪文を唱えてなかったから、二人乗りで緊張している訳じゃない。
 じゃあなんだ? 駆琉は眉を寄せる。

「…………あのさ」
「え?」
 これは現実の声?
 心の声はまだしている。ずっと呪文を唱えている。
「ありがとう、部活紹介のとき。助けてくれて」
 呪文がする。
 風が頬を撫でる。
「注目されるの苦手だから、すごく、その、助かった。本当にありがとう。いうの、遅くなってごめんね」
 呪文がする、ああ、そうか。
(ありがとう、っていうだけなのに緊張してたんだ)
 ふふふ、と駆琉は思わず声をあげて笑ってしまった。「なに」と彩花が不審そうに尋ねてくる。
「ううん、別に。その、僕もありがとう。自転車にのせてくれて」
 可愛いなぁ、安西さんって。
 そう言いたくなるのをぐ、と堪えて駆琉がお礼を述べると、彩花の心の声が落ちてくる。
『変な人』
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