君の声が聞こえる
真っ暗だった。
自分の身体のはずが自分の身体ではないみたいに動かない。
大きな力が自分の全てを邪魔していて、深い深い闇の底に引きずり込まれる。
真っ暗で冷たくて苦しくて怖くて、水が大嫌いになった。


「海で溺れたことがあるんだ」
 プールサイドを駆けていく小学生に、監視員が大声をあげる。笑いながら世間話をしている声がする。
 ここはこんなにも平和でのんびりとしているのに、それでも駆琉は怖くて怖くてたまらなかった。
「幼稚園くらいの頃。波に飲み込まれちゃって、身動きがとれなくなって」
 父や母の悲鳴が聞こえた、息ができない、手を伸ばしても届かない。
 見えない手が自分の身体を掴み、強引に引きずり込む。怖かった。
「海の中で目を開けたら真っ暗で。見えない何かが自分の足元をかすめた気がした」
 冷たくて大きな何かが確かに、足元をかすめた。ここには化け物がいる、そう思った。
 僕は殺される。僕はここで死ぬ。本気で恐れた。
 苦しくて怖くてどうしようもなくてーーー……それ以来どうしても、水が怖くて顔も浸けることができなくなった。

「で、でも! この土日で頭まで潜ることくらいはできるようになったから! 水泳の知識とかも叩き込んできたし!」
 プールサイドに腰掛け、足を浸けて昔の話をしていた駆琉は、彩花が黙ったままだったことに気付いて笑みを作った。
 くだらない話をしてしまった。ただでさえ、こんなことに付き合わせているって言うのに。
 隣で静かに駆琉の話を聞いていた彩花が、何も言わずにプールに入る。
「じゃあ潜ってみて」
「あ、うん」
 本当にくだらない話だ。
 彩花の反応がなくても当然のこと。
 それでも、駆琉が溺れた話に彩花が触れなかったことに自分がショックを受けている。それに気付いた駆琉は顔をひきつらせた。

(安西さんに何か言ってほしかったのか、僕は)
 怖かったね、大変だったね、って?
 そんなトラウマがあるのに頑張るなんて偉いね、って?
 バカバカしい、彩花に取引を持ちかけたのも自分の勝手なのに。彩花が「私のために泳げるようになって」なんて言ったわけでもなければ、若葉から「スイミング同好会のために頑張って」なんて言われてもいない、期待されてもいないのに。
(僕が勝手にやってるだけだ)
 怖々とプールに入った駆琉だったが、水の高さに少しだけ安心した。
 ここのプールは浅いとはわかっていたが、水は腰の上くらいの高さまでしかない。よかった、なんて息を吐いた。

「何秒くらい潜れるのか確認したいから、できる限り潜ってみて」
「わかった」
「じゃあ行くよ……せー、のっ」
 思いきり息を吸い込んで、しゃがみこむ。
 それだけで頭まで潜れた。あとはできるだけ潜り続けるだけーーー……ゴーグルの中でぎゅっと目をつぶり、駆琉は必死に息を止める。
 まだ気持ち的には全然潜れるって言うのに、駆琉は勢いよく立ち上がった。
「は、早くない?」
「ごめ、な、なんか、何かこ、怖くなっちゃって!」
 さすがに、いつもはクールビューティーな彩花の表情が歪む。
 それでも怖かった。怖くて怖くてたまらなかった。ここはこんなにも賑やかで楽しいのに、水の中ときたら静かで冷たくてーーー……。

「まるで遮断されてるみたいだから」
 心の中で思っただけのつもりだったのに、気が付けば駆琉はそれを口にしていた。
 パチパチとまばたきをした彩花が、不思議そうに首を傾げて「遮断?」と聞き返す。
「そう。音が聞こえなくなるから、何か、世界に僕だけ取り残されたような気持ちになる」
 溺れたとき。
 父や母の悲鳴と、真っ青になった顔が見えた。
 「駆琉!」と呼ぶ声がして、次の瞬間には何も聞こえなくなった。ただただ冷たい水と、真っ暗な世界。自分だけが別の世界に連れて行かれたようだった。

「怖いんだ」

 水は容赦なく、自由を奪う。
 呆気なく人の命を奪って、真っ暗な世界に放り出される。
 孤独な世界。だからどうしても、彩花が真っ白な世界で泳げるのかが駆琉にはわからない。
 彩花の世界は真っ白で、何も考えなくとも、何も恐れなくても良い世界だ。その世界はとても居心地が良くて、ずっとそこにいたくなる。
 けれど自分の世界は真っ暗で、苦しくて怖くてどうしようもない。1秒でも早く逃げ出したい、そんな世界。

(才能の差、とかなのかな)
 駆琉がどうしようもないことを思っていると、彩花が「よし」と小さく声をあげた。
 ぽん、と手を叩き、彩花は薄く微笑んだ。
「ひとまず潜るのはやめて、他のことをしよう。50メートルは何で泳ぐつもり? バタフライとか言ったら無視する」
 いつも以上に軽い口調で彩花が言ったので、翔琉もそれにつられるように笑みを浮かべる。
「あ、えーっと……クロールかな、って思ってるんだけど」
「クロールは息継ぎさえマスターしたらスムーズにできるから、凄く良い選択だと思う。でもまずはキックかな」
 「キックのやり方はわかる?」と彩花が続け、駆琉は頷いた。
 この土日で幾つかの泳法を動画で見て、泳ぎ方やコツも調べた。全てシミュレーションといってしまえばそれまでだが、動画のおかげで全体像くらいは掴んだつもりだ。

「太股から蹴るんだよね?」
「うん。つい膝を動かしちゃうと思うけど、それはダメ」
「な、なるほど。膝じゃなくて太股、か」
 頭の中で想像してみるーーー……が、クロールなんてやったことがないので「膝で動かすのはダメ」と言う彩花の言葉の意味がよくわからない。
 とにかく足全体を使うってことだろう、と駆琉はぼんやりと理解しておいた。
「練習してみる? 付き合うよ」
「え、いや、僕は有り難いけど、安西さんの練習は……」
 理解できていない駆琉を見かねたのか、彩花がそう言ってくれた。
 それは有り難い。だって駆琉が見た彩花のクロールは本当に美しくて、クロールが初心者向きだと知ってからは駆琉の頭の中は彩花のクロールでいっぱいになった。
 水が怖い自分のことも忘れて、彩花のようなクロールが泳げるようになることばかりを想像していたくらいだから、彩花が教えてくれるのは本当に嬉しい。

(けど、僕の練習に付き合わせて安西さんが泳ぐ時間がなくなっちゃうのは……僕は安西さんにもっともっと泳いでほしいから、この取引を持ちかけたのに……)
「大丈夫。気にしないで。それにここ、そんなに泳ぐプールじゃないでしょ」
 この「そんなに泳ぐプールじゃない」ところに来ることになってしまったのも駆琉のせいなのに、彩花は何処か楽しげに笑った。
 何でそんなに笑えるんだろう。
 本当は嫌なのに笑ってるのか。
 不安になる駆琉の頭の中に、彩花の弾んだ声が落ちてくるーーー……それは本当に、楽しそうな声だった。

『教えるの、苦手だけど結構、好き。少しは泳げるようになって、水泳を好きになってくれたら凄く嬉しい』
(ああ、安斉さんは本当に水泳が好きなんだ)
 駆琉はふと、希子を思い出した。
 彼女は今にも泣き出しそうな顔で「私が彩花から水泳を奪った」といった、だからもう彩花は水泳をやめたんだと。
 それを願っていた。彩花が水泳をやめていてほしい、と。何故ならーーー……。

(こんなに水泳を好きな安西さんが、水泳をやめていいはずない)
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