君の声が聞こえる
3
「足首でキックするのはダメ。足首は力を抜いて」
「膝。膝でキックしちゃってる」
「もっと太股を意識して。太股から動かすんだよ」
すみません、本当に僕は水泳をナメてました。
1時間経過を告げる笛の音がして休憩のためにプールサイドに上がったとき、駆琉は既にげっそりとしていた。
心の中で土下座しつつ彩花にそっと謝罪なんてしてみる、聞こえるはずもなかったが。
(いやほんとナメてた……)
クロールは初心者向けだというし簡単に泳げるようになるだろう、と。
まだ今日は月曜日だし、約束の金曜日まで時間があるからそれまでには泳げるようになるだろう、と。
それなのにこの1時間、彩花が言った台詞の中で最高に誉めてくれたのは「もうちょっとだね」くらいだった。
「僕ってやっぱり、物覚え、悪い、よね」
これはまずいかもしれない。
「無理でしょ」とさらりと勇介や若葉にいわれたって、駆琉はそれを本気だと思っていなかった。心のどこかで何とかなると思っていたけれどーーー……これは、本当に、まずいのかもしれない。
その不安がようやく現実のものになってきて、駆琉は怖々と彩花に尋ねたのだった。
「別にそんなことはないよ。初心者だもん、みんなそんな感じだよ」
「そ、うなんだ……」
よかった。駆琉は胸を撫で下ろす。
心配しすぎていただけかもしれない。やっぱり、勇介や若葉が「無理」と切り捨てたことは考えすぎだ。
「じゃあ金曜日までに50メートルいけそうかな!」
心配事がなくなった駆琉は、朗らかな笑顔で弾んだ声を出す。
もちろんのこと、彩花からの「そうだね!」という言葉が返ってくることを待ち望んでいたのだけれどーーー……彩花はちらりと駆琉を見てから、明後日を向いたのだった。
「えっ」
「じゃあそろそろ休憩も終わりだし、キックの練習を再開しよっか。ちらっと教えたけど手を回すのももうちょっと練習して……」
「待って待って待って」
鎮まったはずの「不安」が、駆琉の中で頭を持ち上げた。
「なに」と彩花が眉を寄せる。
「さっきの。金曜日までに50メートル泳げるようになるのは無理ってこと?」
「だって水が怖いんでしょ。クロールは息継ぎも必要だよ。それにもしこのプールで50メートル泳ぐって言うんなら、当たり前だけどターンも必要になるからね。このプールは25メートルだから」
「ターンは潜るし、息継ぎしないと50メートル泳ぐのなんて絶対に無理だから」。
付け足された彩花の言葉は、「安心」に浸っていた駆琉を「不安」や「心配」を通り越して「絶望」にまで突き落とした。
ターン? 息継ぎ?
息継ぎについて考えてなかった訳ではない、必要だとは思っていた。けれど、そこまではっきりと考えていなかったのも事実だ。
ターンもそう。何もかもが何とかなると思っていた。
「じゃ、じゃあ25メートルならどうかな?」
「え?」
「25メートルなら泳げるようになる? それに、キックも。その、綺麗じゃなくてもいい。とりあえず僕は50メートル泳げるようになりたいんだ、安西さんのために」
それは駆琉にとって本心だったけれど、彩花の顔が一気に曇った。
口に出してしまってから「まずいことを言ってしまった」と翔琉も気付く、これは彩花が頼んできたわけじゃない。
翔琉は彩花の心の声が聞こえるから、彼女がまだ水泳を愛しているから、そして希子がーーー……自分が彩花から水泳を奪ったと気にしているから、それを多分彩花も気にしているから、何とかしたいと思っただけだ。
「私は、軽い気持ちで君の取引に頷いたわけじゃない」
そうだよね、わかってる。
そう言いたいのに、どうしてだか言葉が出てこなかった。彩花が今にも泣きそうだったから。
「私が水泳をやめたのは、水泳部のない学校を選んだのは、軽い気持ちなんかじゃない。綺麗じゃなくても何でもいいから50メートル泳げさえすれば、なんて。そんな気持ちだって知ってたら頷いたりなんかしなかった」
彼女の心の声が落ちてくる。
言葉になっていなかった、整然としていないぐちゃぐちゃな感情が溢れてきて彩花自身もどうにもならないようだ。
『なんで』とか『だって』とか『なんなの』という疑問と困惑。
こんなことを言いたいわけじゃない。
こんなことを思わせたかったわけじゃない。彼女の心の声が落ちてきて、ただただ苦しかった。
けれど、違うんだよ。軽い気持ちじゃないんだよ、駆琉は胸の中で言う。
「でも、でも安西さんは水泳が大好きなんでしょう? 水泳を愛してるんでしょう? だから、僕は」
「頼んでない、そんなこと」
彩花の声は酷く冷たくて、駆琉は眉を寄せた。
「わかってるよ、でも、僕は……」
「私は」
駆琉の言葉を遮って、彩花がしっかりと駆琉を見た。
「確かに水泳を愛してた。でもそれだけ」
ダメだ。
絶対にダメ。
そんなことはダメだ。
「過去形にしてはダメだ」
彩花が驚いた顔で駆琉を見て、「え?」と小さな声で聞き返したのを駆琉は聞いた。
確かに僕は君に比べたら水泳を愛してないかもしれない。水だって怖いし、上手くキックもできない。
それでも僕はーーー……
「まだ愛してるのに、愛してないふりはしちゃダメだよ」
君の声が聞こえるから。
水泳を愛する、彩花の声がする。
彩花の真っ白な世界が余りに気持ちが良いから、水が素敵なものだって思えた。まだ怖いけれど、それでも頑張りたいと思えた。
その言葉に彩花は息を飲み、眉を寄せる。
「僕は安西さんのために頑張りたいんだ、また水泳をやってほしいから」
「だから私は、そんなこと頼んでなんか……」
「僕がまた安西さんの泳いでる姿が見たい。凄く綺麗だったんでしょう、みんなが言ってる。僕は安西さんが水泳を愛してるって言えるようになるためなら、何だってするよ」
彩花は一度口を開いたが、結局何も言えずに口を閉ざした。
彼女は大きな瞳を駆琉に向ける。その瞳の奥が、困惑したように揺れているのを駆琉は見た。困惑し、絶望し、それでもまだ彼女の光は消えていない。
「じゃあ私のためじゃないね、自分のためじゃない」
「そうだね、僕のためだ。僕は、僕のために、安西さんに泳いでほしいよ。安西さんが愛してるって」
あなたが今も水泳を愛してることを知ってるから。
どれほど大好きだったか知ってるから。
「水泳を『愛してた』じゃなくて『愛してる』っていってほしい」
彩花の手をとって、無意識のうちに駆琉は握りしめていた。
本当にただそれだけだった。
もしかしたら駆琉だけが彩花の本音を知っている、彩花すら気付いていないかもしれない本音を。だから彩花に水泳をやめてほしくなかった。
「僕には何もないから、安西さんみたいに愛してるものがあるのが羨ましいんだ。だから、大切にしてほしい」
そのために、そのためならば。
彩花はその瞬間、唇を噛んた。ぎゅう、と駆琉の手を握り返して初めて手を繋いでいることに駆琉は気づいたほどだった。
彩花が泣き出すのではないかと思った。しかし駆琉の予想は外れ、彼女は泣き出さなかった。ただ彩花は、駆琉にしか聞こえないほどの小さな声で囁く。
「私にも水泳しかないよ」
それだけ言うと彩花は駆琉の手を振りほどき、無言のまま専用のコースに歩いていった。
いつの間にか休憩は終わっていて、彩花はそのまま泳ぐ専門のコースに入ると泳ぎ始めた。美しいクロール、誰もが目を奪われる。
『彩花は水泳をやめたんです、私がそう言ったから』
駆琉は頭の中で、希子から聞いたことを思い出していた。
「足首でキックするのはダメ。足首は力を抜いて」
「膝。膝でキックしちゃってる」
「もっと太股を意識して。太股から動かすんだよ」
すみません、本当に僕は水泳をナメてました。
1時間経過を告げる笛の音がして休憩のためにプールサイドに上がったとき、駆琉は既にげっそりとしていた。
心の中で土下座しつつ彩花にそっと謝罪なんてしてみる、聞こえるはずもなかったが。
(いやほんとナメてた……)
クロールは初心者向けだというし簡単に泳げるようになるだろう、と。
まだ今日は月曜日だし、約束の金曜日まで時間があるからそれまでには泳げるようになるだろう、と。
それなのにこの1時間、彩花が言った台詞の中で最高に誉めてくれたのは「もうちょっとだね」くらいだった。
「僕ってやっぱり、物覚え、悪い、よね」
これはまずいかもしれない。
「無理でしょ」とさらりと勇介や若葉にいわれたって、駆琉はそれを本気だと思っていなかった。心のどこかで何とかなると思っていたけれどーーー……これは、本当に、まずいのかもしれない。
その不安がようやく現実のものになってきて、駆琉は怖々と彩花に尋ねたのだった。
「別にそんなことはないよ。初心者だもん、みんなそんな感じだよ」
「そ、うなんだ……」
よかった。駆琉は胸を撫で下ろす。
心配しすぎていただけかもしれない。やっぱり、勇介や若葉が「無理」と切り捨てたことは考えすぎだ。
「じゃあ金曜日までに50メートルいけそうかな!」
心配事がなくなった駆琉は、朗らかな笑顔で弾んだ声を出す。
もちろんのこと、彩花からの「そうだね!」という言葉が返ってくることを待ち望んでいたのだけれどーーー……彩花はちらりと駆琉を見てから、明後日を向いたのだった。
「えっ」
「じゃあそろそろ休憩も終わりだし、キックの練習を再開しよっか。ちらっと教えたけど手を回すのももうちょっと練習して……」
「待って待って待って」
鎮まったはずの「不安」が、駆琉の中で頭を持ち上げた。
「なに」と彩花が眉を寄せる。
「さっきの。金曜日までに50メートル泳げるようになるのは無理ってこと?」
「だって水が怖いんでしょ。クロールは息継ぎも必要だよ。それにもしこのプールで50メートル泳ぐって言うんなら、当たり前だけどターンも必要になるからね。このプールは25メートルだから」
「ターンは潜るし、息継ぎしないと50メートル泳ぐのなんて絶対に無理だから」。
付け足された彩花の言葉は、「安心」に浸っていた駆琉を「不安」や「心配」を通り越して「絶望」にまで突き落とした。
ターン? 息継ぎ?
息継ぎについて考えてなかった訳ではない、必要だとは思っていた。けれど、そこまではっきりと考えていなかったのも事実だ。
ターンもそう。何もかもが何とかなると思っていた。
「じゃ、じゃあ25メートルならどうかな?」
「え?」
「25メートルなら泳げるようになる? それに、キックも。その、綺麗じゃなくてもいい。とりあえず僕は50メートル泳げるようになりたいんだ、安西さんのために」
それは駆琉にとって本心だったけれど、彩花の顔が一気に曇った。
口に出してしまってから「まずいことを言ってしまった」と翔琉も気付く、これは彩花が頼んできたわけじゃない。
翔琉は彩花の心の声が聞こえるから、彼女がまだ水泳を愛しているから、そして希子がーーー……自分が彩花から水泳を奪ったと気にしているから、それを多分彩花も気にしているから、何とかしたいと思っただけだ。
「私は、軽い気持ちで君の取引に頷いたわけじゃない」
そうだよね、わかってる。
そう言いたいのに、どうしてだか言葉が出てこなかった。彩花が今にも泣きそうだったから。
「私が水泳をやめたのは、水泳部のない学校を選んだのは、軽い気持ちなんかじゃない。綺麗じゃなくても何でもいいから50メートル泳げさえすれば、なんて。そんな気持ちだって知ってたら頷いたりなんかしなかった」
彼女の心の声が落ちてくる。
言葉になっていなかった、整然としていないぐちゃぐちゃな感情が溢れてきて彩花自身もどうにもならないようだ。
『なんで』とか『だって』とか『なんなの』という疑問と困惑。
こんなことを言いたいわけじゃない。
こんなことを思わせたかったわけじゃない。彼女の心の声が落ちてきて、ただただ苦しかった。
けれど、違うんだよ。軽い気持ちじゃないんだよ、駆琉は胸の中で言う。
「でも、でも安西さんは水泳が大好きなんでしょう? 水泳を愛してるんでしょう? だから、僕は」
「頼んでない、そんなこと」
彩花の声は酷く冷たくて、駆琉は眉を寄せた。
「わかってるよ、でも、僕は……」
「私は」
駆琉の言葉を遮って、彩花がしっかりと駆琉を見た。
「確かに水泳を愛してた。でもそれだけ」
ダメだ。
絶対にダメ。
そんなことはダメだ。
「過去形にしてはダメだ」
彩花が驚いた顔で駆琉を見て、「え?」と小さな声で聞き返したのを駆琉は聞いた。
確かに僕は君に比べたら水泳を愛してないかもしれない。水だって怖いし、上手くキックもできない。
それでも僕はーーー……
「まだ愛してるのに、愛してないふりはしちゃダメだよ」
君の声が聞こえるから。
水泳を愛する、彩花の声がする。
彩花の真っ白な世界が余りに気持ちが良いから、水が素敵なものだって思えた。まだ怖いけれど、それでも頑張りたいと思えた。
その言葉に彩花は息を飲み、眉を寄せる。
「僕は安西さんのために頑張りたいんだ、また水泳をやってほしいから」
「だから私は、そんなこと頼んでなんか……」
「僕がまた安西さんの泳いでる姿が見たい。凄く綺麗だったんでしょう、みんなが言ってる。僕は安西さんが水泳を愛してるって言えるようになるためなら、何だってするよ」
彩花は一度口を開いたが、結局何も言えずに口を閉ざした。
彼女は大きな瞳を駆琉に向ける。その瞳の奥が、困惑したように揺れているのを駆琉は見た。困惑し、絶望し、それでもまだ彼女の光は消えていない。
「じゃあ私のためじゃないね、自分のためじゃない」
「そうだね、僕のためだ。僕は、僕のために、安西さんに泳いでほしいよ。安西さんが愛してるって」
あなたが今も水泳を愛してることを知ってるから。
どれほど大好きだったか知ってるから。
「水泳を『愛してた』じゃなくて『愛してる』っていってほしい」
彩花の手をとって、無意識のうちに駆琉は握りしめていた。
本当にただそれだけだった。
もしかしたら駆琉だけが彩花の本音を知っている、彩花すら気付いていないかもしれない本音を。だから彩花に水泳をやめてほしくなかった。
「僕には何もないから、安西さんみたいに愛してるものがあるのが羨ましいんだ。だから、大切にしてほしい」
そのために、そのためならば。
彩花はその瞬間、唇を噛んた。ぎゅう、と駆琉の手を握り返して初めて手を繋いでいることに駆琉は気づいたほどだった。
彩花が泣き出すのではないかと思った。しかし駆琉の予想は外れ、彼女は泣き出さなかった。ただ彩花は、駆琉にしか聞こえないほどの小さな声で囁く。
「私にも水泳しかないよ」
それだけ言うと彩花は駆琉の手を振りほどき、無言のまま専用のコースに歩いていった。
いつの間にか休憩は終わっていて、彩花はそのまま泳ぐ専門のコースに入ると泳ぎ始めた。美しいクロール、誰もが目を奪われる。
『彩花は水泳をやめたんです、私がそう言ったから』
駆琉は頭の中で、希子から聞いたことを思い出していた。