君の声が聞こえる
(負けてしまう)
息継ぎをしたときに視界に入ってきたのは駆琉よりも身体1つ分は前を泳ぐ、相手の姿だった。
前田が速いだろうと言うことは駆琉だって頭では理解していたつもりだったけれど、泳ぐだけでも必死になっている頭でそれを見てしまうと冷静ではいられなかった。
一瞬で様々なことが駆琉の頭の中を巡る、自分でも理解できないくらいの一瞬で。
(どうしよう、負けてしまう。どうしようどうしよう、僕が、僕が負けたら)
勝てる、なんて思ってもいなかったはずなのに。
怖い、それだけを思っていたはずなのに。
ドクンドクンと心臓が鳴って痛かった、ぐるりと前田は腕を回して駆琉よりも速く進んでいく。
彼に勝つためにはどうすればいい?
速く泳ぐしない、彼よりも速く泳いで、追い付いて、追い抜いて。速く、もっと速く。
(速く、速く泳がなくちゃ、彼よりも速く、もっと、もっともっと速く)
そうしないと負けてしまう。
彩花をバカにされるままとなる。
ダメだ、そんなこと。
彩花は負け犬じゃない、彩花は水泳を愛してる、彩花は負けていない、彩花は、彩花はーーー……!
(ああ、もっと速く泳がなくちゃ、そのためならどんな泳ぎ方をしたっていい)
彩花のあの美しいクロールが駆琉の頭の中によみがえって、弾けて、消えた。
あの美しいクロールをもっと見たかったはずなのに、彩花のように泳ぎたかったはずなのに。
彩花の美しい泳ぎに感動した若葉の気持ちすらも弾けて消えてしまって、駆琉は彩花と若葉のアドバイスも忘れて足を強く蹴る。腕を回す。
(速く、速く。もっと、もっと速く。負けてしまう、もっともっと速く、速く速く速く速く! 負けてしまう! どうしようどうしたらいい? 負けてしまう、速く、もっと)
もはや駆琉は「速く泳ぐこと」しか考えていなかった。
横のレーンを泳ぐ前田ばかりを気にしてしまい、クロールの基本の形だって忘れて腕を回す。
あ、と思ったときにはもう遅くて、駆琉は思いきり水を飲み込んだ。
(やばい)
失敗した。
速さばかりを気にしてめちゃくちゃに泳いだものだから、息継ぎが上手くできていない。
苦しい、息を吸わなくては、と思ったときにはもう、たっぷりと水を飲み込んでしまっていた。
息ができない、飲み込んだ水が冷たい。
そのひんやりとした恐怖が腹の奥からじわじわとわき上がってきて、駆琉の身体を支配していくのを感じた。
(あ、あーーー……どうしよう、僕、次)
冷たい水。
ペース配分も考えずに泳いだ身体は重い。
腕を回すときはどうするんだっけ。
キックは何を気を付けるんだっけ。
落ち着け、と頭の中で繰り返す。
落ち着け、落ち着こう、落ち着かなくちゃ。
体勢を立て直そうと思ったところで身体が言うことを聞かず、落ち着こうと思えば思うほどに焦りがつのって息ができない。
息ができなければ身体はもっと動かなくなって、重くなっていく身体にどんどんと混乱してしまう。
そして前田は駆琉を置いていくかのように先に先に進んでいくーーー……ああ、どうしよう。
(苦しい、怖い。苦しい)
息が吸い込めない。身体が動かない。
もう泳げない、と身体と心が悲鳴をあげる。
しかし水深2メートルのプールは深くて、もう泳ぐのをやめたいと思ったって立つことも出来ない。
足が届かないことはこんなにも怖いのか。
息ができないことはこんなにも苦しいのか。
水はこんなにも重かったっけ、冷たかったっけ、怖かったっけ。
(溺れる、泳げない、僕はーーー……怖い、泳げない、どうしよう、どうしたらいい?)
足が届かない。
コースのちょうど真ん中のせいで、戻ることも進むこともできない。
誰も助けてくれない。
端まで泳がなくては、と思うのに泳げない。
(怖い)
振り払ったはずの「恐怖」が、完全に駆琉を飲み込む。
水が怖い、泳げない、冷たい、身体が重い、息ができない、何もかもが怖い。
真っ暗な闇が自分を覆い尽くそうとしているようで、駆琉は怖くて怖くてたまらなくなった。
(誰か助けて、怖い、水が怖い)
ギュ、と目をつぶる。
身体が重くたって何とか端まで泳ごうと思っていた駆琉の心は、ほとんど折れかけていた。
無意識のうちに回していた腕や、水を蹴っていた足も動かなくなってくる。
息ができないせいで頭が回らず、ただただ水への恐怖が駆琉を支配した。完全に。
溺れるんだ、と駆琉は思った。
このまま水に飲まれてしまう。
真っ暗な世界だ、水の音がする。恐怖の音。怖い。苦しい。水が怖い。
水が怖くなくなったはずなのにーーー……あれは、誰が教えてくれたんだっけ。
(水は怖くない、私がいるから、と誰がいってくれたんだっけ)
ここにいるなら助けてよ。
また水が怖くないことを教えてよ。
君のように泳ぎたいんだ、君を見たいんだ。
名前を教えてよ、声を聞かせてよ。僕を助けて。
助けて、僕を君の世界に連れ戻してーーー
『奏くん!』
彩花の声が落ちてきた。
真っ黒な世界が刹那として塗り変わる。
駆琉が思わず目を開けると水面が見えた、キラキラと輝く宝石の世界。
『泳いで、もう少しだけ』
彩花の声がする。
彩花の声が聞こえる。
君は宝石の世界にいる。
『頑張って』
たったそれだけで力がわいた。
腕を回して水をかき、水を蹴る。
そうすると当たり前だが少しだけ進んで、駆琉は思いきり顔をあげた。
プールサイドに彩花が立っている、駆琉を見つめている。その真っ黒な瞳で。
「頑張れ! 奏くん!」
はっきりと君の声が聞こえた。
息継ぎをしたときに視界に入ってきたのは駆琉よりも身体1つ分は前を泳ぐ、相手の姿だった。
前田が速いだろうと言うことは駆琉だって頭では理解していたつもりだったけれど、泳ぐだけでも必死になっている頭でそれを見てしまうと冷静ではいられなかった。
一瞬で様々なことが駆琉の頭の中を巡る、自分でも理解できないくらいの一瞬で。
(どうしよう、負けてしまう。どうしようどうしよう、僕が、僕が負けたら)
勝てる、なんて思ってもいなかったはずなのに。
怖い、それだけを思っていたはずなのに。
ドクンドクンと心臓が鳴って痛かった、ぐるりと前田は腕を回して駆琉よりも速く進んでいく。
彼に勝つためにはどうすればいい?
速く泳ぐしない、彼よりも速く泳いで、追い付いて、追い抜いて。速く、もっと速く。
(速く、速く泳がなくちゃ、彼よりも速く、もっと、もっともっと速く)
そうしないと負けてしまう。
彩花をバカにされるままとなる。
ダメだ、そんなこと。
彩花は負け犬じゃない、彩花は水泳を愛してる、彩花は負けていない、彩花は、彩花はーーー……!
(ああ、もっと速く泳がなくちゃ、そのためならどんな泳ぎ方をしたっていい)
彩花のあの美しいクロールが駆琉の頭の中によみがえって、弾けて、消えた。
あの美しいクロールをもっと見たかったはずなのに、彩花のように泳ぎたかったはずなのに。
彩花の美しい泳ぎに感動した若葉の気持ちすらも弾けて消えてしまって、駆琉は彩花と若葉のアドバイスも忘れて足を強く蹴る。腕を回す。
(速く、速く。もっと、もっと速く。負けてしまう、もっともっと速く、速く速く速く速く! 負けてしまう! どうしようどうしたらいい? 負けてしまう、速く、もっと)
もはや駆琉は「速く泳ぐこと」しか考えていなかった。
横のレーンを泳ぐ前田ばかりを気にしてしまい、クロールの基本の形だって忘れて腕を回す。
あ、と思ったときにはもう遅くて、駆琉は思いきり水を飲み込んだ。
(やばい)
失敗した。
速さばかりを気にしてめちゃくちゃに泳いだものだから、息継ぎが上手くできていない。
苦しい、息を吸わなくては、と思ったときにはもう、たっぷりと水を飲み込んでしまっていた。
息ができない、飲み込んだ水が冷たい。
そのひんやりとした恐怖が腹の奥からじわじわとわき上がってきて、駆琉の身体を支配していくのを感じた。
(あ、あーーー……どうしよう、僕、次)
冷たい水。
ペース配分も考えずに泳いだ身体は重い。
腕を回すときはどうするんだっけ。
キックは何を気を付けるんだっけ。
落ち着け、と頭の中で繰り返す。
落ち着け、落ち着こう、落ち着かなくちゃ。
体勢を立て直そうと思ったところで身体が言うことを聞かず、落ち着こうと思えば思うほどに焦りがつのって息ができない。
息ができなければ身体はもっと動かなくなって、重くなっていく身体にどんどんと混乱してしまう。
そして前田は駆琉を置いていくかのように先に先に進んでいくーーー……ああ、どうしよう。
(苦しい、怖い。苦しい)
息が吸い込めない。身体が動かない。
もう泳げない、と身体と心が悲鳴をあげる。
しかし水深2メートルのプールは深くて、もう泳ぐのをやめたいと思ったって立つことも出来ない。
足が届かないことはこんなにも怖いのか。
息ができないことはこんなにも苦しいのか。
水はこんなにも重かったっけ、冷たかったっけ、怖かったっけ。
(溺れる、泳げない、僕はーーー……怖い、泳げない、どうしよう、どうしたらいい?)
足が届かない。
コースのちょうど真ん中のせいで、戻ることも進むこともできない。
誰も助けてくれない。
端まで泳がなくては、と思うのに泳げない。
(怖い)
振り払ったはずの「恐怖」が、完全に駆琉を飲み込む。
水が怖い、泳げない、冷たい、身体が重い、息ができない、何もかもが怖い。
真っ暗な闇が自分を覆い尽くそうとしているようで、駆琉は怖くて怖くてたまらなくなった。
(誰か助けて、怖い、水が怖い)
ギュ、と目をつぶる。
身体が重くたって何とか端まで泳ごうと思っていた駆琉の心は、ほとんど折れかけていた。
無意識のうちに回していた腕や、水を蹴っていた足も動かなくなってくる。
息ができないせいで頭が回らず、ただただ水への恐怖が駆琉を支配した。完全に。
溺れるんだ、と駆琉は思った。
このまま水に飲まれてしまう。
真っ暗な世界だ、水の音がする。恐怖の音。怖い。苦しい。水が怖い。
水が怖くなくなったはずなのにーーー……あれは、誰が教えてくれたんだっけ。
(水は怖くない、私がいるから、と誰がいってくれたんだっけ)
ここにいるなら助けてよ。
また水が怖くないことを教えてよ。
君のように泳ぎたいんだ、君を見たいんだ。
名前を教えてよ、声を聞かせてよ。僕を助けて。
助けて、僕を君の世界に連れ戻してーーー
『奏くん!』
彩花の声が落ちてきた。
真っ黒な世界が刹那として塗り変わる。
駆琉が思わず目を開けると水面が見えた、キラキラと輝く宝石の世界。
『泳いで、もう少しだけ』
彩花の声がする。
彩花の声が聞こえる。
君は宝石の世界にいる。
『頑張って』
たったそれだけで力がわいた。
腕を回して水をかき、水を蹴る。
そうすると当たり前だが少しだけ進んで、駆琉は思いきり顔をあげた。
プールサイドに彩花が立っている、駆琉を見つめている。その真っ黒な瞳で。
「頑張れ! 奏くん!」
はっきりと君の声が聞こえた。