君の声が聞こえる


「あのさぁ、全っ然ダメ! 彩花が楽しくなさそうに泳いでるんだけど!」

 駆琉がプールを出たところで、見学していたらしい希子が話しかけてくる。
 ああ、やっぱり親友から見ても彩花は楽しそうに泳いでいなかったんだ。
 彼女は今日も「全然ダメ」と「こんなのじゃダメ」を繰り返し、見ている限りは美しく泳ぎ続けていたーーー……けれど、彩花は楽しくなんかないんだ。

「ねぇ、何で? キコはね、奏くんが『安西さんが水泳が好きなら泳いでほしいって思う』って聞いて、彩花に水泳を再開してほしいって思ったの。泳いでる彩花は本当にカッコ良くて、綺麗で、大好きだから。だから……」
 駆琉の頭の中で彩花の心の声がよみがえる。
 「全然ダメ」、「どうして、泳げないの」、「こんなのじゃダメ」。
 彩花は苦しんでいた、泳げば泳ぐほどに。

(僕が安西さんをプールに連れ戻したから)
「彩花が苦しんでる姿なんてもう見たくない!」
 希子が叫んだ。
 その通りだ、と駆琉は思う。

(僕は安西さんのクロールが好き)
 彩花の美しいクロール。
 誰よりも美しくて、見ていると自分まで真っ白な世界に連れて行かれる。
(安西さんの真っ白か世界が好き)
 何も恐れるものもない真っ白な世界。
 駆琉はそれが本当に羨ましくて、そんな風に泳ぎたかった。
 彩花のように泳げたとしたら、彩花の世界は怖いものなんてないだろう、と思った。

「僕は安西さんのクロールが好きだから、安西さんも水泳を愛してるから、それだけでいいって思ったんだ」
 本当に自分はわかっていたのだろうか。
 彼女が「どんな気持ちで」水泳をやめたのか。
 「どうして」水泳をやめたのか、ってことを。
 自分だけが彩花の心の声が聞こえるから、何でもわかると思っていたけれどーーー……。

「彩花をもう苦しめないでよ」

 希子の言葉に、駆琉は何も言い返せなかった。
 彩花に泳いでほしい、と願ったのは自分で、泳いでくれたのは彩花。
 彩花は本当に、泳ぎたいと願ったのだろうか。
(僕は本当に、やってはいけないことをやっちゃったのかもしれない)
 彩花の手をとって、深海に連れていって。
 美しいクロールがもう1度見たいと理想だけを押し付けて、彼女をがんじがらめにした。
 逃げられないようにしてしまった。

(僕は安西さんが好き。安西さんにも好きになってもらいたい、安西さんはとても強いから、だから、安西さんはとても強くて、強くて、だから僕の言葉に「イヤだ」なんて言えなくて)
 きっとそれで彩花を傷付けた。
 ならば僕がすべきことはーーー……。

「このまま彩花が苦しそうに泳ぐって言うなら、キコが彩花をスイミング同好会からやめさせるからね!」
 うん、と駆琉は頷きかけた。
 自分にできることは、彩花を解放してあげることだと思ったから。
 首を縦に振ろうとした瞬間、声がする。

「そんなことしなくていいよ」
 駆琉と希子が同時に振り返ると、体育館の入り口に彩花が立っていた。
 その黒い髪はまだ濡れていて、急いで出てきたらしいことが見てとれた。
 彩花はすぅ、と息を吸い込んで希子をしっかりと見る。真っ黒な瞳。凛とした、その姿。

「大丈夫だよ、希子。私、水泳が好きだから」

 水泳を語るとき、彩花は多分この世界で1番美しい。
 咲き乱れる花のような強さを湛え、彼女はしゃんと立つ。

「また昔みたいに泳ぎたい。だから、大丈夫。見ててよ、私を。希子が安心するくらいに強い私になるから」
 だからもう大丈夫だよ、と彩花は続けた。
 希子は口を開いたが結局何も言わなくて、ただ笑顔を浮かべる。
「うん、わかった。応援してる」
「ありがとう」
 多分親友同士にとって、会話はそれだけでよかった。
 部活の練習があるから、と希子は走っていって、駆琉と彩花だけが残される。

「もう今日は練習に戻らないよね。ちょっと歩かない?」
 水に濡れた黒髪をかきあげながら、彩花が微笑んだ。
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