君の声が聞こえる
 夕暮れが包む山道を、駆琉と彩花は並んで歩く。
 裏山のてっぺんにある神社に彩花は行こうと言った、樹木が作るトンネルと細い道を抜けた先。
 彩花から塩素の匂いがする。
 真っ白い肌が、夕暮れのせいで朱に染まっている。
 いつもは青の世界にいる彩花が朱に染まっているなんて不思議だな、なんて駆琉は思った。

「奏くんさ、言ってたでしょ」
 舗装されていない道に落ちている枝を踏みながら歩いていた駆琉は、ちらりと彩花を見た。
 真っ白い肌、朱色の頬、濡れた黒髪。
「私は惨めじゃない、強いって。橘さんに」
 ああ、あの日。
 彩花との取引で泳ごうと思っていた日、花園高校の人達に会って勝負をした日。
 確かに駆琉は「安西さんは惨めなんかじゃない」と言った、本当に惨めだなんて思ってもいなかったから。

「でも私は弱いし、負け犬だし、惨めだよ。橘さんが言ってたことは正しい」
 彩花が1歩、駆琉より前に出た。
 スラリと伸びる長い手足を使って歩く彩花の後ろ姿を駆琉は見つめ、「どうして」と問う。
 彩花は惨めではない、負け犬じゃない。
 強くて美しくて、速い。

「中学1年生で大会新記録を出すまで、私は本当に怖いものなんてなかった。泳ぐ度に楽しくて、真っ白な世界にいたの。そこでは何も怖いものなんてなくて、何にも恐れなくてもよくて。私は水の中ではなんだって成れた、何でもできた」

 「あいうえお」。
 彩花が呪文を唱える。
 彼女の心の声が、遠くになっていく。

「本当にあの大会は楽しかった。今までにないくらい楽しくてーーー……あの瞬間、世界は私のためにあるんだって、本当にそう思った。私が世界の中心だった」

 泳ぐ度に彩花の心に広がる、真っ白な世界。
 駆琉はそれを知っている。
 けれど何も知らない、彩花がどんなことを思って泳いできたか。何故泳ぎ続けるのか、何故泳ぐことをやめてしまったのか。
 朱色に染まった彩花が、樹木の隙間から見える景色に視線を向けた。

「けれど私は、泳ぎ終わった瞬間からあの世界に戻れなくなった。泳げば泳ぐほどに『あの瞬間』から遠ざかって、記録も伸びなくなって」

 期待とか重圧とか、注目とか。
 彩花が悩んでいたのはそういうことではなくて。

「もう1度、もう1度だけ、『あの瞬間』に戻りたい。速く泳げば、もっともっと速く。0.1秒でも速く泳げさえすれば、『あの瞬間』に戻れるーーー……そう思って泳ぐ度に私は『あの瞬間』から突き放されて、どんどん遅くなって。水泳が楽しくなくなったの」

 彩花を追い詰めたのは、彩花。
 彩花の素晴らしい栄光。
 真っ白な世界。
 恐れるものが何もない、彩花の世界。
 その一瞬が、彩花をとらえてしまった。

「水の中は私の世界だった。私の全てだった。私は水さえあれば何にだって成れて、何だって出来たの。けれど、けれどもうーーー……泳ぐ度に、私は水泳が……」

 キラキラとした宝石の世界。
 そこが安西 彩花の世界。
 山のてっぺんまで来て立ち止まった彩花は振り返り、その真っ黒な瞳で駆琉を見つめる。


「だから私、水泳をやめた。
 水泳が嫌いになりそうだったから」


 ああ、どんな気持ちだったのだろう。
 こんなにも彩花は水泳を愛してる。
 その水泳に苦しめられて、辛くて、悲しくて。
 まだ水泳が大好きなのに、愛しているのに、自分からその水泳を手放そうと決めたその瞬間は。

「苦しいんだったら水泳をやめたら、って希子に言われたとき、私はその言葉に逃げた。過去の自分に勝てないことが悔しくて、自分がとても惨めだって思った。橘さんが言っていた通り、敵前逃亡だよね。私は過去の自分に負けて、過去の自分から逃げたの」

 何故か駆琉は、自分の身が引きちぎられるような気持ちになった。
 やっぱり自分は彩花を水泳に戻すべきではなかったのだ、彩花の全てを知っているつもりになって何も知らなかった。
 彩花がどんな思いで水泳をやめて、どんな気持ちで水泳に戻ってきたか。

「安西さん、僕は、その……」
「でもね、奏くん。私は君と泳いだとき、凄く楽しかった」
 え、と駆琉は顔をあげた。
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