君の声が聞こえる
「奏くんが泳いでいる姿を見て、私は初めて誰かのために勝ちたいって思ったの。奏くんのために勝ちたいって」
勝ってみせる、と彩花はあのとき思っていた。
50メートルもまともに泳げなくて、緊張と焦りから息継ぎすらまともに出来なくて、彩花が泳いでくれないと勝つことなんて出来なかった自分のあの情けないクロールが、彩花の心に届いたなんて。
駆琉はそんなこと、考えたこともなかった。
「あの大会の日以来、私は自分の泳ぎが大嫌いだった。水泳部もやめて、それでも泳いでいたのは『あの瞬間』にもう1度だけ戻りたいから。『あの瞬間』に戻ることができたら、水泳をやめようって思ってた。楽しくないから。
でも奏くんと泳いだとき、楽しくて。あの大会以来、はじめて泳ぎ終わってから『楽しかった』って思えて」
君の手をとって、僕は君を深海に連れていったと思ってた。
息が出来なくなった君は僕を恨んでいるんだ、と思ってた。
「私は水泳を愛しているんだ、って実感できたの」
けれど彩花は笑う。
真っ白い肌を朱色に染めて。
塩素の匂いがする、黒髪が濡れている。
君は宝石の世界の人、キラキラと輝く。
「だから、ごめんね。奏くんが嫌がってるのに、リレーに出てほしいって思った。自分の気持ちを押し付けちゃったよね、本当にごめんなさい」
君の声が聞こえる。
ううん、本当は聞こえてなんていなかった。
君の声が聞こえる、と思って僕は話そうとなんてしなかった。
君の心の声が聞こえるように、僕の心の声も君に聞こえたらいいと思って、話す義務を怠ってきた。
本当は話さないと、口に出さないと何も伝わらないのに。
「安西さん、僕は……」
口に出すと君に伝わる。
口に出して初めて、君に伝わる。
情けなくて、カッコ悪くて。
それでも言葉にしなければ、と駆琉は思った。
「なに」と、彩花も駆琉の声を聞いてくれる。
「安西さんのクロールが凄く、好きで。安西さんみたいに美しく、速く泳ぎたいって思った」
真っ直ぐに進む彩花の美しいクロール。
何度も何度も、夢の中でさえ、彩花のその美しいクロールは駆琉を支配する。
どれだけそのクロールに憧れ、恋い焦がれてきたか。
「でも僕は、美しくも、速くも泳げなくて。安西さんがいなければ水だって怖いままで。きっと勝負にもならなくて。安西さんのクロールを見なければ、きっと今も泳げないままだった」
どうしてこんなに自分は情けなくて、カッコ悪いのだろう。
駆琉はいつの間にか、自分が泣いていることに気付いた。
眼鏡を外してから駆琉はボロボロと落ちる涙をぬぐう、自分の情けなさに嫌気がさす。
出来ることならば何も言わずにここから逃げ出したい、でもそんなことをしてしまったら伝わらない。
言わなくちゃ、伝わらない。
君に心の声は聞こえないから。
「僕は、安西さんが好き。
安西さんがとても好き」
多分、自分の頬は夕暮れのせいではなくて朱に染まっている。
駆琉は彩花の顔を見ることが出来ず、自分の運動靴を見つめた。
「だから安西さんに情けなくてカッコ悪いところをこれ以上、見せたくなかったんだ。安西さんは『私があなたを好きになると思う?』って僕に言ったよね、僕は情けなくてカッコ悪くて弱いから、だから、だからリレーに出たくなかった。見られなくなかったから。安西さんがいないと、水が怖いから」
ああ、言ってしまった。
情けなくて、カッコ悪くて、誰にも言いたくなかった「本音」を。
きっと呆れられてるだろう、嫌われるだろう。けれど言わなくちゃ伝わらないから。
ザ、ザと足音がして。
運動靴を見つめる駆琉の視界の中に、ローファーが入ってくる。
誘われるように顔をあげていくと、彩花の真っ黒な瞳と目が合った。
「ねぇじゃあやっぱり、一緒に泳ごうよ」
彩花は駆琉の手をとり、ぎゅうっと握りながらそう告げる。
「私がいたら怖くないんでしょう? 私に向かって泳いできてよ。君と泳いだら楽しい、私がいたら怖くない。ねぇ、泳ごう」
男子のクロールの次は女子のクロールで。
もしも駆琉がリレーに出るとしたら、駆琉は彩花に向かって泳ぐことになる。
勝負したあの日と同じようにーーー……それでも、駆琉は怖くてすぐには頷けなかった。
プールの中で焦ってしまって息が出来なくなって、だからと言って途中で泳ぐこともやめれなかった恐怖がじわりとよみがえる。
(水が怖い、水が怖かった)
冷や汗が浮かぶ。
ぎゅう、と彩花が駆琉の手を握り直す。
「駆琉くん、水泳を好きになって」
恐れるものが何もない真っ白な世界。
キラキラと輝く宝石の世界。
青色の世界。
そんな美しい世界に彩花はいて、駆琉はその美しい世界に憧れた。
本当は手をとって深海に連れていったのは彩花の方だったかもしれない、自分こそが人魚姫に憧れてヒトのくせに深海に堕ちていった哀れなヒトなのかもしれない。
「一緒に泳ぐよ、彩花さん」
君の声のせいで、何も聞こえない。
勝ってみせる、と彩花はあのとき思っていた。
50メートルもまともに泳げなくて、緊張と焦りから息継ぎすらまともに出来なくて、彩花が泳いでくれないと勝つことなんて出来なかった自分のあの情けないクロールが、彩花の心に届いたなんて。
駆琉はそんなこと、考えたこともなかった。
「あの大会の日以来、私は自分の泳ぎが大嫌いだった。水泳部もやめて、それでも泳いでいたのは『あの瞬間』にもう1度だけ戻りたいから。『あの瞬間』に戻ることができたら、水泳をやめようって思ってた。楽しくないから。
でも奏くんと泳いだとき、楽しくて。あの大会以来、はじめて泳ぎ終わってから『楽しかった』って思えて」
君の手をとって、僕は君を深海に連れていったと思ってた。
息が出来なくなった君は僕を恨んでいるんだ、と思ってた。
「私は水泳を愛しているんだ、って実感できたの」
けれど彩花は笑う。
真っ白い肌を朱色に染めて。
塩素の匂いがする、黒髪が濡れている。
君は宝石の世界の人、キラキラと輝く。
「だから、ごめんね。奏くんが嫌がってるのに、リレーに出てほしいって思った。自分の気持ちを押し付けちゃったよね、本当にごめんなさい」
君の声が聞こえる。
ううん、本当は聞こえてなんていなかった。
君の声が聞こえる、と思って僕は話そうとなんてしなかった。
君の心の声が聞こえるように、僕の心の声も君に聞こえたらいいと思って、話す義務を怠ってきた。
本当は話さないと、口に出さないと何も伝わらないのに。
「安西さん、僕は……」
口に出すと君に伝わる。
口に出して初めて、君に伝わる。
情けなくて、カッコ悪くて。
それでも言葉にしなければ、と駆琉は思った。
「なに」と、彩花も駆琉の声を聞いてくれる。
「安西さんのクロールが凄く、好きで。安西さんみたいに美しく、速く泳ぎたいって思った」
真っ直ぐに進む彩花の美しいクロール。
何度も何度も、夢の中でさえ、彩花のその美しいクロールは駆琉を支配する。
どれだけそのクロールに憧れ、恋い焦がれてきたか。
「でも僕は、美しくも、速くも泳げなくて。安西さんがいなければ水だって怖いままで。きっと勝負にもならなくて。安西さんのクロールを見なければ、きっと今も泳げないままだった」
どうしてこんなに自分は情けなくて、カッコ悪いのだろう。
駆琉はいつの間にか、自分が泣いていることに気付いた。
眼鏡を外してから駆琉はボロボロと落ちる涙をぬぐう、自分の情けなさに嫌気がさす。
出来ることならば何も言わずにここから逃げ出したい、でもそんなことをしてしまったら伝わらない。
言わなくちゃ、伝わらない。
君に心の声は聞こえないから。
「僕は、安西さんが好き。
安西さんがとても好き」
多分、自分の頬は夕暮れのせいではなくて朱に染まっている。
駆琉は彩花の顔を見ることが出来ず、自分の運動靴を見つめた。
「だから安西さんに情けなくてカッコ悪いところをこれ以上、見せたくなかったんだ。安西さんは『私があなたを好きになると思う?』って僕に言ったよね、僕は情けなくてカッコ悪くて弱いから、だから、だからリレーに出たくなかった。見られなくなかったから。安西さんがいないと、水が怖いから」
ああ、言ってしまった。
情けなくて、カッコ悪くて、誰にも言いたくなかった「本音」を。
きっと呆れられてるだろう、嫌われるだろう。けれど言わなくちゃ伝わらないから。
ザ、ザと足音がして。
運動靴を見つめる駆琉の視界の中に、ローファーが入ってくる。
誘われるように顔をあげていくと、彩花の真っ黒な瞳と目が合った。
「ねぇじゃあやっぱり、一緒に泳ごうよ」
彩花は駆琉の手をとり、ぎゅうっと握りながらそう告げる。
「私がいたら怖くないんでしょう? 私に向かって泳いできてよ。君と泳いだら楽しい、私がいたら怖くない。ねぇ、泳ごう」
男子のクロールの次は女子のクロールで。
もしも駆琉がリレーに出るとしたら、駆琉は彩花に向かって泳ぐことになる。
勝負したあの日と同じようにーーー……それでも、駆琉は怖くてすぐには頷けなかった。
プールの中で焦ってしまって息が出来なくなって、だからと言って途中で泳ぐこともやめれなかった恐怖がじわりとよみがえる。
(水が怖い、水が怖かった)
冷や汗が浮かぶ。
ぎゅう、と彩花が駆琉の手を握り直す。
「駆琉くん、水泳を好きになって」
恐れるものが何もない真っ白な世界。
キラキラと輝く宝石の世界。
青色の世界。
そんな美しい世界に彩花はいて、駆琉はその美しい世界に憧れた。
本当は手をとって深海に連れていったのは彩花の方だったかもしれない、自分こそが人魚姫に憧れてヒトのくせに深海に堕ちていった哀れなヒトなのかもしれない。
「一緒に泳ぐよ、彩花さん」
君の声のせいで、何も聞こえない。