机上の言の葉
     *



 何事も無くテストが終わり、夏休みが始まってすぐ、僕達はバスに揺られていた。

 音無さんが言っていた温泉まで片道三時間弱。最初の一時間半ほどは、電車に揺られていた。

 考えてみたら、学生だけで電車に乗ると言う事自体久しぶりで、気分が高揚しているのが分かる。知っている町を抜け、畑を抜け、橋を渡る時には太陽に光る海と浮かぶ島々と白く大きな雲とが如何にも夏休みという雰囲気を醸し出していて、童心に帰るようだった。

 楽しかった電車の旅とは裏腹に、バスの移動は恐怖そのものになっている。

 初めは良かった。しかし、次第に山道に入って行ったかと思うと、車両一台がギリギリ通れるような道路に、落ちたらまず助からないであろう谷、曲がりくねった道は前方からの車など見えようもない。

 決してジェットコースターのように速くはないのだけれど、近い恐怖を感じる。

 しかし、音無さんが隣にいる中、あまり怖がると格好がつかないような気がして平気なふりをしていたのだけれど、当の音無さんは優しい目をしてこちらを見ていた。

 実際の時間の倍はかかったような心境でようやくついた目的地は、崖の先端にポツンと建ったホテル。

 躊躇いなく中に入る音無さんに続いてホテルに入り、カウンターを目指す。

 マニュアル通りなのか、にこやかに「いかがいたしました」と話す男性を横に、音無さんがカウンターの向こう側を指さした。

 料金案内のようなものがあり、お金を払えば泊まらなくても温泉に入れるらしい。

「ここって、温泉だけは入れるんですか?」

「可能ですよ。当ホテルには二か所浴場がございまして、一つは源泉を沸かしなおしましたお湯で、後ろの階段から行ける浴場です」

 男性の声に合わせて後ろを見たら、確かに階段がある。

「もう一つがケーブルカーで下っていただきましたところにある、源泉を引いたままの湯でございます」

「ここのお湯って飲む事ってできるんですか?」

「はい、ケーブルカーで降りられた先で汲める場所がございまして、お持ち帰りも出来ます。

 ですが、飲むほどに効能が高まるわけではございませんので、飲み過ぎないようにご注意ください」

 男性からの説明を受けた後で、音無さんを一瞥する。

 音無さんが頷いたのを確認して、男性にケーブルカーの代金と入浴料を払う。

 ケーブルカーが戻ってくるまでに二十分ほどかかるらしい。

 ホテルのロビーで待っていても良いが、音無さんに袖を引っ張られたので外の発着場で待つことにした。

 何故わざわざ外に来たのだろうかと疑問に思ったが、すぐに答えは分かった。

 目もくらむような崖は、しかし同時に、まるで大型の動物の背のような生々しさを持つ鮮やかな緑の山で作られた谷でもある。

 翡翠色の川は、日に照らされて輝き、泳ぐ魚も捕えられそうなほど透き通っていた。

 吸い込まれそうな景色に感動しつつ、バスの中ではもっと別の角度から見られただろうに何を怖がっていたのだろうかと後悔する。

『やっぱり成宮君、高所恐怖症ってわけじゃないんだね』

「今日のバスは絶叫マシンに乗る様な怖さだったから、別に高いだけなら大丈夫だよ」

『絶叫マシンは苦手?』

「遊園地自体、十年くらい行ってないから、どうなんだろう?

 でも、昔は苦手だったよ」

 僕の中の最後の遊園地の記憶は、家族で行って、絶叫マシンには乗らずに延々と水でぬれるようなものに乗っていた。

 ジェットコースターは、一回転しなければ何とか乗れたような記憶がある。

「音無さんは遊園地とか行くの?」

『大学に入った後も友達と何回か行ったよ。絶叫マシンも割と好きな方だと思う』

 道理で平気そうな顔をしていたわけだ。

 いつか音無さんと遊園地に行ける機会が来るだろうかと、思っている間に、音無さんの興味が僕のバッグに移っていた。

『この鈴、今日もつけてきたんだ。いつもと違うバッグだよね?』

「預けた人に出来るだけ身に着けておけ、って言われてね」

『おまじないとか、魔よけとかなのかな?』

「確かにそう言うのには詳しそうな人だけど、だとしたら、これを持っていなかったら大変なことになるかもね」

 相手は本物の魔法使い。もしも音無さんの言う通りなら、効果は折り紙付きと言った所だろうか。

 しかし、出来るだけ持ち歩いている鈴だが、偶に忘れる事もあり、忘れた時に何か悪いことが起こったわけでもないので、違うとは思う。

 それにしても、音無さんは本当によくこの鈴に気が付くものだ。

 いつの間にかに十分経っていたのか、ケーブルカーがやって来たので、乗り込む。中には誰もおらず、ドアは手動になっていた。

 階段一段一段に椅子があるような構造になっていて、一番前と一番後ろでは高度に差がある。

 一番前の席には乗車し終わったと知らせるボタンがあり、入り口を確認した音無さんがボタンを押した。

 ほどなくケーブルカーが動き出す。

 谷に沿って落ちるように下っていくが、スピードはあまり出ておらず、怖くはない。

 むしろ、先ほどまで遠目に見ていた景色の中に入り込むことが出来て、楽しかった。

 近づく川に気を取られていたら、隣に座っている音無さんが、すっと携帯を差し出してくる。

『混浴だったらどうしよっか?』

「どうするって、時間ずらす?」

 音無さんからの不意打ちに動揺を隠して答えたけれど、自分でもよく言葉が出てきたなと思う。

 当の音無さんは何か言いたそうな顔で、携帯の画面をスライドさせた。

 出てきた文字は『残念、混浴じゃないよ』だったけれど、僕は心底ほっとした。

 音無さんは調べたうえで来ているだろうし、ちょっと考えればからかわれているだけだと気が付いたかもしれないけれど。

 ケーブルカーが麓の小屋に到着して、最初の扉の先には待合室のような場所があった。

 ソファに自動販売機、温泉もここで汲めるらしい。

 お互い気の済むまで入った後に、ここで待ち合わせる事にして、看板に示された道を行って温泉に赴く。

 数段階段を下ったところに脱衣所への扉があり、中には衣服を入れる籠と貴重品を入れるロッカーが設置してある。脱衣所を抜けた先にある浴場は、僅かなスペースと湯船があるだけ。

 先客も居たけれど、特に気にすることなくかけ湯をして、湯につかる。

 透明なお湯は人肌よりも少し高い位なのかぬるめで、ずっと入っていられそうな感じがした。

 壁際にお湯が流れてくるところがあり――ライオンの顔はしていない――、反対側にはケーブルカーからも見えた景色が一望できる。

 露天風呂自体初めての経験だった僕は、外が見える状態でお風呂に入っている状況が何だか新鮮で、見える景色と、ぬるめのお湯と、偶に吹く風を楽しんでいた。
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