机上の言の葉
 気が付けば浴槽に一人だった。

 僕より後に来た人は居なかったはずだけれど、もしかして結構な時間がたったのではないか、と慌てて脱衣所に戻る。

 着替えを終えて時計を確認したら、三十分以上湯につかっていたらしい。

 待合室に戻って来たが、人がいなくて息をつく。

 しばらく黙って座っていたが、今のうちに温泉を汲んでおくか、とバッグの中からアリスから借りた透明なタンブラーを取り出した。

 飲泉場と言うらしく、学校でよく見かける手洗い場の蛇口があるべき場所からお湯が流れていて、タンブラーに注いでいる時に音無さんが戻って来た。

 ふたを閉じて、音無さんを視界に捉えた僕に、『待った?』と口を動かす。

「ちょっと前に出たところだよ」

『よかった』

 実際どれくらい待ったかは覚えていないけれど、恐らく十分くらいだろう。

 胸に手を当てて、安心したとジェスチャーする音無さんが、コロッと楽しそうな表情に変えて近づいてきた。

 手に持つ携帯には『ついて来て』とだけ書いてある。

 何か面白いものでも見つけたのだろうかと、音無さんについて行くが、向かったのはお風呂がある下りの階段。

 お風呂がある階のさらに下、何もないと思っていたのだが、左に曲がることが出来て、外へとつながっていた。

 要するに、川まで行くことが出来る。

『成宮君って、こういう自然とか好きだよね』

「何で知ってるの?」

 音無さんの言う通り、こういった如何にも物語の一シーンになりそうな風景には、目を奪われる。それ以外にも、水が流れる様を見るのは飽きない。

 でも、音無さんにこの事を言った事はないと思うのだけれど。

『以前、成宮君じっと空を見ていたことがあったから、そうなのかなって。

 ゲームセンター何かで騒ぐタイプでもなさそうだし』

 ばれてしまったのであれば、衝動のままに川に近づきたい。

 チラッと音無さんを見たら、待っていたとばかりにメモ用紙を見せる。

『鞄持っていてあげるから、先に行って大丈夫だよ』

 音無さんが伸ばした腕にバッグを渡すのは気が引けるのだけれど、渡さなければ引っ込みそうも無かったので、お礼を言ってバッグを手渡し、川へと急ぐ。

 思った通り、川の水ははっきりと底が見えるほどに透明で、アリスのお使いはこっちの水でもいいんじゃないかと思えた。

 光を反射する水面の下では、小さな魚が流れに逆らっている様や、流れに身を任せ石が転がっている様が見て取れて、全く飽きが来ない。

 高低差で水が白波を作っている様子も音も、上空を飛ぶトンボも、何もかもが楽しませてくれる。

 川近くの手頃な岩に座っていたら、音無さんがあとからやってきて、隣に座った。

『こんな成宮君始めてみたかも』

「退屈だったら、もう大丈夫だよ?」

『ううん。わたしもこういうの好きだよ。これでも、バンドのボーカルやっていたから、感動するものには興味持つようになったんだ。

 なかなか一緒に行ってくれる人は居ないけど』

「昔はそうでもなかったんだね」

『高校生の半ばくらいだったかな。行き詰った時に、ふと歌詞の意味をちゃんと考えるようになったんだよ。

 で、気が付いたの。決して長くない詞だけれど、いろんな事が詰まっていて、グッとくるものがあるって。

 そのグッとくるものの、根源にはこういった素直な感動があるんじゃないかなって。言葉にするのは難しいんだけど』

 音無さんは『語っちゃって恥ずかしい』と照れたように笑う。

「でも、気持ちは分かる気がする」

 音無さんと同じく言葉では言い表せないけれど。

 誰かと二人並んで、ただじっと景色を眺めているのは、妙なくすぐったさと変な居心地の良さがあった。



     *



 僕がそれに気が付いたのは、次の日タンブラーの水ををアリスに持って行こうとしたとき。

 紐の先に付いていた木製の鈴部分だけ、引きちぎられたように無くなっていた。

 事を理解する前に、全身から血の気が引く。

 ようやく理解が追いついて、次に思い至ったのが、いつ失くしてしまったのか。

 ケーブルカーに乗るまでは、確かにあった。ちぎれたところを見る限り、相当な力がかかったようだから、何処かに引っかかってちぎれたのだとしたら気が付くはず。

 そこで二つ思い当たった。

 一つは温泉に入っている時。鍵付きのロッカーだったけれど、何らかの方法で鈴だけ持っていく事は出来たかもしれない。

 もう一つは音無さんにバッグを預けた時。音無さんは妙に鈴に興味を持っていたようだったから、持って行った可能性は否定できない。むしろ、現状音無さんが持って行ったとしか考えられない。

 改めて自分の過失でないかを考えてみたが、簡単に切れる紐ではないので自然と切れたと言う事もなければ、雑に扱っていた記憶も無い。

 音無さんに裏切られたのだ。証拠はないけれど、他に可能性は思い至らない。

 しかし不思議と、音無さんを責める気にはなれなかった。

 そもそも音無さんに会うための代価――正確には違うが――だったのだから、音無さんを責めるのが筋違いだ、というのもある。

 流れはどうあれ、僕が音無さんにバッグを渡したのだから、僕にも責任がある、というのもある。

 でも、どちらともちょっと腑に落ちない。たぶん、相手が音無さんじゃなかったら、もっと怒っていただろう。鈴を失くしたことで、アリスに誹られるのは、目に見えているのだから。

 なるほど、裏切られてもいいと思えるほどに、僕は音無さんの事を大切に思っていたのか。彩の無かった僕の人生に花を添え、僕の望みを叶えてくれているのだから、当然と言えば当然かもしれない。

 鈴の事に関しては、全ては僕の責任なのだ、と全力で謝ろう。怒られると分かっていてアリスに会いに行くのは、とても嫌なのだけれど。
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