机上の言の葉
     *



 音無さんが家の場所を聞いて、さっそく次の日の朝、連絡がやって来た。

 時刻にして午前六時。普段鳴らない携帯のバイブレーションにひとしきり驚いてから、画面を確認したところ『カーズト君。あーそーぼー』と謎のメールが来ていて、二度驚いた。

 音無さんには全て話したので、このメールが意図するところは大体わかる。

 夏だから日は登っているし、僕的には全然問題ない時間だが、人によってはあと数時間は起きないだろう。

 問題はメールの内容から察するに、既に家の前まで来ていると言う事。

 もしも僕が起きていなかったら、どうするつもりだったのだろうと呆れつつ、玄関のドアを開けた。

 扉の近くにいた音無さんは、待っていましたとばかりに『おはよ』と書かれた画面をこちらに向ける。僕も挨拶を返したのだけれど、音無さんはじろじろと僕を見た後で、浮かない顔をした。

『もしかして、カズト起きてた?』

「一時間くらい前から」

 起きていたら何か問題だっただろうか? 返事を待つついでに、音無さんを観察する。

 いつもの伊達メガネはかけておらず、暑さのせいかいつもに比べて薄着で来ていた。

 眼鏡をかけていない音無さんに会うのは初めてで、雰囲気の違いにじーっと顔を見ていたら携帯が視界を遮る。

『寝起きのカズトを見るために、頑張って早起きしたのに』

「寝起きなんて面白いものじゃないと思うんだけど」

『意外な一面が見られるかもしれないでしょ』

 自分の意外な一面と言われてもまるでぴんとは来ないけれど、寝ぼけている音無さんはちょっと見てみたい。

 起床に関してはいいとして、目の前の問題へと意識をシフトする。

「今日は朝から何をするの?」

『とりあえず、散歩かな。一日カズトと遊ぶ気で来てるよ』

 要するに外に出るのか。家に入れろと言われても困るから、別に構わないのだけれど。

 音無さんには玄関で待っていてもらって、準備をするためにリビングに入る。

 玄関とリビングは短い廊下で繋がり、廊下にキッチンがあるワンルームの部屋。

 リビングと廊下の間には扉はあるけれど、基本的に開いているので、すでに音無さんにはリビングの様子まである程度見えていただろう。

 リビングの扉を閉めて、音無さんの隣に居ても不自然にならないような恰好を模索する。

 狭い選択肢の中で考えてみても、選択のしようはない。

 どこかに転がっている財布を探して、手提げ鞄の中に鍵が入っていることを確認して、充電器につながっている携帯をポケットに入れる。

 窓に鍵をかけて、タンスの上に置いているタンブラーの中の鈴を一瞥してから、音無さんの所に戻った。

 音無さんは、興味深そうにキッチンを眺めている。

「何か面白いものあった?」

『他人の家ってだけで、だいぶ面白いよ』

 そう言うものなのだろうか。誰かの家に久しく遊びに行っていない身としては、疑問が残るが、音無さんが面白いと言うのであれば構わないか。

 家の玄関は西側で、日差しがアパートに遮られているためか、思っていた以上に涼しい。

 朝の澄んだ空気というのか、まだ活動が始まっていない停滞した空気というのか、独特の雰囲気があって、わずかに心が騒めいているのが分かる。

 靴を履いて、鍵をかけた僕の手を、音無さんが掴み歩き出す。

 アパートの影から出ると、眩しい朝日に目が眩んだ。やはり自分は日陰者だと、再確認をしている間にも音無さんはずんずん進んで行くので、慌てて追いかける。

「何処に行くの?」

『ひみつ』

 立てた人差し指の向こうから返ってきた言葉は、まるで答えになっていないけれど、悪戯っぽく笑う音無さんには考えがあっての事なのだろうと、以降は黙ってついて行く。

 見慣れた景色から、初めて見る道に入って、少し歩いたところで目的地だろう場所が見えてきた。

 朝の青白い空の下、青々と地面を染めている稲を、四角く囲っているあぜ道が、田の字を書いているようにも見える。

「田んぼだ」

 自分でも驚いて良いのか、感動していいのか、呆れたらいいのか分からない。

 ただ、木の棒を片手にあぜ道を友達とふざけ合いながら歩く、というものに憧れはあった。

 ボーっとしていたら、音無さんがあぜ道へと僕を引っ張っていく。

 住宅地の入口付近にある田んぼには水が張られていて、道に生えた草花が僕の足をくすぐった。

 流石に音無さんとふざけ合って歩く事は出来ないけれど、ぼんやりと想像することは出来る。それに、時折目が合う音無さんがほほ笑む姿は、一人でいる時には感じられなかったくすぐったさと妙な甘酸っぱさがあって、青春を感じられた。

 あぜ道を真っ直ぐ、田んぼの終わりまで歩いたところで、音無さんがようやく足を止める。

『カズトが見たかったのって、こういうところだよね』

「前にちょっと話したもんね。音無さんはグッとくるって言ってたっけ」

『うん。ところでカズトは普段音楽とか聴く?』

 急な音無さんの質問の意図が分からないのだけれど、裏を読むことは出来る気がしないので真面目に考える。

 それに音無さんから音楽の話題を振ってくることは珍しい。

「何も音が無いのは寂しいから、適当にBGMになりそうなものを聴いてるよ」

『例えば?』

「全く詳しくはないんだけど、ジャズとかピアノの曲とかかな。後は邦楽とかも聴くかも」

『あまり、歌詞のある曲は聴かないんだね』

「古いドラマの曲とか、聴き覚えのある歌は耳に入ったら聴くんだけど」

 音無さんが、僕の言葉を吟味するように、こくこくと小さく何度も頷く。

 返事を書いている間に、水の上を滑って来たのか、涼しい風がやってきて目を細めた。

『わたしがバンドのボーカルを始めてすぐの事なんだけど、上手く歌えない時期が続いていたんだ。技術は置いておいて、どう歌えばいいのか分からないって感じで。

 どうしてだと思う?』

「歌詞の意味をちゃんと考えてなかったんだよね」

 前チラッと聞いた時には、歌詞の意味をちゃんと考えるようになったと言っていたから、それまでは逆だったのだろう。

『そうそう。歌詞の内容を分かっているようで、全然分かっていなかったんだよ。

 別れの歌なのに、長年一緒にいた友達がいなくなる悲しみをちっとも考えていなかった、みたいな。

 だから、まずは本をたくさん読んで、比較的分かりやすい恋愛から考えるようになって、風景や場面にも憧れを持つようになったの』

 音無さんのベタ好きは、僕と入口は違っても、もともと近いものなのかもしれない。

「そう言えば、音無さんが机に書いていたのって、歌詞だったの?」

『歌詞のつもりだったんだけど、現状だと詩なのかな』

「何が違うの?」

『メロディに乗って初めて詞なんだって』

 音無さん自身、明確に違いが分かっているわけではなさそうだけれど、言いたいことはわかった。

「だったら、あの詩も音無さんは想いがあって書いていたんだよね」

『教えてあげないよ?』

 結局よくわからなかった詩の解説を本人にして貰えないかと思ったのだけれど、先んじて手を打たれた。

「どうして?」と駄目もとで返したところ、『褒められた動機で書いたわけじゃないから』と戻ってくる。

「机に書こうと思った理由は?」

『誰かに気が付いてほしかったから。気が付いたのがカズトで良かったんだけど、改めて考えたら申し訳ないから、教えないの』

 内容を聞き出そうとはしていないのだけれど、音無さんが頑ななので話題を変える。

「声のリハビリってどういう事してるの?」

『やってないよ』

「ごめん」

 一般にリハビリをしたら声が出るようになる、と言っていたので、てっきり何かやっているのかと思っていた。

 でも、音無さんがそうだとは言っていないし、病院に通っているようなそぶりも見せていない。

 軽率だった僕に、音無さんは気にしていないと首を振った。

『カズトは歌うのは好き?』

「好きとか嫌いとか考えた事ないかな。

 音楽の授業くらいでしかちゃんと歌ったことないし」

『やっぱり、そう言う人もいるんだね。わたしの周りは音楽好きばっかりだったから、ちょっと新鮮』

「楽器を演奏していた人も、歌が好きだったの?」

『好きだったよ。わたしが歌しかできないから、色々あって譲ってくれたけど』

「バンドの人達とは仲良かったの?」

『仲良かった……かな。仲が良いと言うよりも、良い仲間って感じだよ』

 色々あったと言う事で、諍いを疑っていたのだけれど、杞憂だったらしい。

 明るい音無さんの表情を見る限り、諍いはあったかもしれないが、尾を引いていたと言う事はないのだろう。

『次の場所に行こうか』

 話がひと段落したところで音無さんが次へと促す。場所を知っているのは音無さんだけ――そもそも、移動すること自体知らなかったし――だから、僕はついて行くだけなのだけれど。

 次の場所までは距離があるらしく、途中でコンビニに寄って朝食を買う事になった。

 パンで済ませようと思ったのだけれど、音無さん頼まれてポテトを買う事になったので、パンをやめてアメリカンドッグを買ってみる。

 道中の公園で足を止めて、ベンチに座って朝食にする。

 だいぶ外にいた気がするのだけれど、公園には僕達以外誰もいなくて、通勤なのかスーツを着た人がちらほら道を歩いていた。始めてくる小さい公園で、遊具がブランコとすべり台しかない。

 ひとり風に揺れるブランコが哀愁を漂わせる中、今後の予定を音無さんに尋ねるべきかを考えていた。

 しかし、どこに連れていかれるか分からない今の状況が面白く、敢えて訊く事も無いだろうと結論付けた。
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