机上の言の葉
*
音無さんの言葉を受けて、一つ気になる事が出来たので、忘れないうちにアリスの所へ赴く事にした。三十度を超える真夏日でも、アリスのいる旧校舎は涼しく、長袖を羽織っても大丈夫なくらいだった。
いつもの部屋に、退屈そうに座っていたアリスは、僕を見つけるなり「久しぶり」と力なく片手を挙げた。
「此処にいて暑いって事はないと思うんですけど、どうしたんですか?」
「カズト君の敬語が抜けないんだよね」
「アリスって、どうしても同級生に見えないんですよね」
「冗談は置いておいて、単に暇なだけだよ」
アリスは冗談だと言うが、いずれ敬語がなくなると言った手前、こちらにも問題がある。
反省をしつつ「暇なんですか?」と問い直した。
「カズト君はいつ此処に人が多く来ると思う?」
「いつって、願いがある人が来るんでしょうから、決まっていないんじゃないですか?」
「答えがテスト前後って言ったら、理由は分かる?」
「単位関係が多いんですね」
「多いって言ってもたかが知れてるし、全員に会うわけでもないんだけどね。
授業もないし、気分的に暇だなって思うんだよ」
アリスの言う事はとても理解できる。もしも音無さんと出会っていなければ、「何かいい暇つぶしがないですかね?」と願っていたかもしれない。
でも音無さんと出会った僕は、別の言葉を返すことにした。
「どこかに遊びに行くとかしないんですか?」
「行きたい場所は、だいたい一年生のうちに行っちゃったんだよね。
準備さえすれば、どこでも日帰りできるし」
「注意を向けてみたら、見方が変わるかもしれませんよ?」
「それはカズト君がやるべきことでしょ? で、何しにきたの?」
僕がすべきだと何故わかったのかは今さら問わないけれど、だったら何をしに来たのかも分かっているんじゃなかろうか。
「以前の音無さんの歌を聴く方法がないかなと思って、尋ねに来たんですよ」
「願うとは言わないんだね」
「ずるいですか?」
「ううん。方法は知ってるけど、私に訊いたら代価を貰うよ?」
代価は想定内だったけれど、必要以上に「私に」を強調したアリスの言葉が気になって、質問を追加する。
「アリスじゃないと出来ない方法ですか?」
「今の世の中、誰でも出来るんじゃないかな?」
「分かりました。何か暇つぶしでもしましょうか?」
「急がなくていいの?」
「急ぐことでもないですからね。ここって、何かあるんですか?」
「ボードゲームなら何でもあるよ。チェスとかできる?」
「軽くやった事ある程度なので、やる前にルールとか確認させて貰えれば何とか」
どこからかチェス盤を取り出したアリスに、まるで勝てる気はしなかったけれど、基本暇なのは僕も変わらないので快く相手をすることにした。
チェスの後、将棋とオセロもしたけれど、僕は一度も勝てる事はなく、区切りがついたところでアリスが満足そうに背伸びをした。
「カズト君弱いね」
「言い返せないです」
「でも、楽しかった。カズト君はこれからどうするの?」
「やる事ないですし、帰ろうかなと思ってますけど」
「だったら、帰る前に学食に行ってみたらどうかな」
何気ない提案だけれど、わざわざ言うのだから意味があるのだろう。
どういう意味があるのかも何となく分かるので、「ありがとうございます」とお礼を言って部屋を出る。背後で「またね」と声がしたので、たまには遊びに来ようと心に決めた。
学食で遅い昼食を買って、席に持って行く。いつもとは違い選び放題で、逆に迷ってしまった。窓側の席に決めてうどんを食べていたら、懐かしい顔がやって来る。
「よ、ボッチ。久しぶりだな」
「うん、八木も久しぶり」
八木は「最近学食きていなかったのに、どうしたんだ?」と僕の前の席に座る。「夏休みだからね」と返す僕を、八木が訝しげる。しかしすぐに力を抜いて、椅子の背もたれに体重を預けたようだった。
「今日はどうしたんだ? こんな時間にわざわざ来たって事は、何かあるんだろ?」
「八木こそ今日はどうしたの?」
「学割取りに来たんだよ。来週から旅行に行くからな」
「そうなんだ」
八木なら一緒に行ってくれる友人が沢山いるのだろう。
八木の視線が、こちらを追及するものに変わる。
「で、ボッチはどうしたんだ? 引きこもり時期だろ?」
「否定はできないけど、たまには大学に用事くらいはあるよ。でも、八木に訊きたい事もあったんだ」
「珍しいな。何が訊きたいんだ?」
「以前八木がバンドの話をしてたよね。そのバンドの曲って聴けないのかな?」
八木が目を丸くして、何故か僕の頬を引っ張った。
「何するのさ」
「いや、本物のボッチか疑わしくてな。
で、レアレスの話だったな」
「レアレスって言うのは?」
「件のバンドの名前。興味を持ったのはいいが、もう解散したらしいぞ?」
「それも前に聞いたね」
「だったらいいか。去年の文化祭の映像がネットに投稿されているから、『レアレス 文化祭』で検索したら、すぐ分かるだろ」
「わかった。ありがとう」
お礼を言って立ち上がる僕に、八木が「もう行くのか?」と声を掛ける。
「思い立ったが吉日って言うし、忘れないうちに聴きたいから。八木も旅行の準備あるんじゃない?」
「そう言う事にしておくよ。じゃあ、休み明けちゃんと学校に来いよ」
失礼な言い草だが、こういう冗談を言われるような性格だと自覚はしているので、「約束は出来ない」と返してから、学食を後にした。
家に帰ってパソコンを開く。起動するのを待っている間、自分の世間知らずさを再認識していた。
普段からネットに触れていれば、大学が分かっているのだから音無さんのバンド――レアレスだったか――を調べる事くらいできただろう。
早速検索にかけてみたら、大手の動画サイトが表示され、クリックする。
画面のスクロールを待たずに始まった動画は、良く知る大学の屋外に設置したステージが遠目に映されていた。
ステージ上の人物ははっきりと映っていないけれど、音無さんと横尾さんが居る事は何とか分かった。マイクを持って喋っているのは音無さんのようなので、スピーカーから聞こえている声も音無さんのものなのだろう。今まで一緒に居ながら聞くことが出来なかった音無さんの声は音無さんらしく、違和感がない事に違和感を覚える。
前口上が終わり、演奏が始まる。ギターとベースとドラムとボーカルのバンドで、好きな人はベースの音がとか、ドラムがとか一家言あるのだろうけれど、僕の耳にはボーカルの声しか入ってこない。
知らない曲だから素人の僕には、上手なのか下手なのかは分からないが――上手なのだろうけれど――先ほど話していた時とも全く違う雰囲気の音無さんの歌は、安定感があり何よりも良く通っていた。
僕が音無さんの事を知っている事もあるだろうけれど、思わず聴き入ってしまう。
同年代で世界と渡り合うような凄い人がいるが、音無さんもその一員ではないかと思えるほどに。少なくとも、僕の隣でくすぶっていていい人ではない。
音無さんの声を取り戻す事は、今まで僕の相手をしてくれた音無さんに出来る最大の恩返しになるだろう。いや、単純に僕が音無さんに、好きな人に、何かしてあげたいのかもしれない。
音無さんの言葉を受けて、一つ気になる事が出来たので、忘れないうちにアリスの所へ赴く事にした。三十度を超える真夏日でも、アリスのいる旧校舎は涼しく、長袖を羽織っても大丈夫なくらいだった。
いつもの部屋に、退屈そうに座っていたアリスは、僕を見つけるなり「久しぶり」と力なく片手を挙げた。
「此処にいて暑いって事はないと思うんですけど、どうしたんですか?」
「カズト君の敬語が抜けないんだよね」
「アリスって、どうしても同級生に見えないんですよね」
「冗談は置いておいて、単に暇なだけだよ」
アリスは冗談だと言うが、いずれ敬語がなくなると言った手前、こちらにも問題がある。
反省をしつつ「暇なんですか?」と問い直した。
「カズト君はいつ此処に人が多く来ると思う?」
「いつって、願いがある人が来るんでしょうから、決まっていないんじゃないですか?」
「答えがテスト前後って言ったら、理由は分かる?」
「単位関係が多いんですね」
「多いって言ってもたかが知れてるし、全員に会うわけでもないんだけどね。
授業もないし、気分的に暇だなって思うんだよ」
アリスの言う事はとても理解できる。もしも音無さんと出会っていなければ、「何かいい暇つぶしがないですかね?」と願っていたかもしれない。
でも音無さんと出会った僕は、別の言葉を返すことにした。
「どこかに遊びに行くとかしないんですか?」
「行きたい場所は、だいたい一年生のうちに行っちゃったんだよね。
準備さえすれば、どこでも日帰りできるし」
「注意を向けてみたら、見方が変わるかもしれませんよ?」
「それはカズト君がやるべきことでしょ? で、何しにきたの?」
僕がすべきだと何故わかったのかは今さら問わないけれど、だったら何をしに来たのかも分かっているんじゃなかろうか。
「以前の音無さんの歌を聴く方法がないかなと思って、尋ねに来たんですよ」
「願うとは言わないんだね」
「ずるいですか?」
「ううん。方法は知ってるけど、私に訊いたら代価を貰うよ?」
代価は想定内だったけれど、必要以上に「私に」を強調したアリスの言葉が気になって、質問を追加する。
「アリスじゃないと出来ない方法ですか?」
「今の世の中、誰でも出来るんじゃないかな?」
「分かりました。何か暇つぶしでもしましょうか?」
「急がなくていいの?」
「急ぐことでもないですからね。ここって、何かあるんですか?」
「ボードゲームなら何でもあるよ。チェスとかできる?」
「軽くやった事ある程度なので、やる前にルールとか確認させて貰えれば何とか」
どこからかチェス盤を取り出したアリスに、まるで勝てる気はしなかったけれど、基本暇なのは僕も変わらないので快く相手をすることにした。
チェスの後、将棋とオセロもしたけれど、僕は一度も勝てる事はなく、区切りがついたところでアリスが満足そうに背伸びをした。
「カズト君弱いね」
「言い返せないです」
「でも、楽しかった。カズト君はこれからどうするの?」
「やる事ないですし、帰ろうかなと思ってますけど」
「だったら、帰る前に学食に行ってみたらどうかな」
何気ない提案だけれど、わざわざ言うのだから意味があるのだろう。
どういう意味があるのかも何となく分かるので、「ありがとうございます」とお礼を言って部屋を出る。背後で「またね」と声がしたので、たまには遊びに来ようと心に決めた。
学食で遅い昼食を買って、席に持って行く。いつもとは違い選び放題で、逆に迷ってしまった。窓側の席に決めてうどんを食べていたら、懐かしい顔がやって来る。
「よ、ボッチ。久しぶりだな」
「うん、八木も久しぶり」
八木は「最近学食きていなかったのに、どうしたんだ?」と僕の前の席に座る。「夏休みだからね」と返す僕を、八木が訝しげる。しかしすぐに力を抜いて、椅子の背もたれに体重を預けたようだった。
「今日はどうしたんだ? こんな時間にわざわざ来たって事は、何かあるんだろ?」
「八木こそ今日はどうしたの?」
「学割取りに来たんだよ。来週から旅行に行くからな」
「そうなんだ」
八木なら一緒に行ってくれる友人が沢山いるのだろう。
八木の視線が、こちらを追及するものに変わる。
「で、ボッチはどうしたんだ? 引きこもり時期だろ?」
「否定はできないけど、たまには大学に用事くらいはあるよ。でも、八木に訊きたい事もあったんだ」
「珍しいな。何が訊きたいんだ?」
「以前八木がバンドの話をしてたよね。そのバンドの曲って聴けないのかな?」
八木が目を丸くして、何故か僕の頬を引っ張った。
「何するのさ」
「いや、本物のボッチか疑わしくてな。
で、レアレスの話だったな」
「レアレスって言うのは?」
「件のバンドの名前。興味を持ったのはいいが、もう解散したらしいぞ?」
「それも前に聞いたね」
「だったらいいか。去年の文化祭の映像がネットに投稿されているから、『レアレス 文化祭』で検索したら、すぐ分かるだろ」
「わかった。ありがとう」
お礼を言って立ち上がる僕に、八木が「もう行くのか?」と声を掛ける。
「思い立ったが吉日って言うし、忘れないうちに聴きたいから。八木も旅行の準備あるんじゃない?」
「そう言う事にしておくよ。じゃあ、休み明けちゃんと学校に来いよ」
失礼な言い草だが、こういう冗談を言われるような性格だと自覚はしているので、「約束は出来ない」と返してから、学食を後にした。
家に帰ってパソコンを開く。起動するのを待っている間、自分の世間知らずさを再認識していた。
普段からネットに触れていれば、大学が分かっているのだから音無さんのバンド――レアレスだったか――を調べる事くらいできただろう。
早速検索にかけてみたら、大手の動画サイトが表示され、クリックする。
画面のスクロールを待たずに始まった動画は、良く知る大学の屋外に設置したステージが遠目に映されていた。
ステージ上の人物ははっきりと映っていないけれど、音無さんと横尾さんが居る事は何とか分かった。マイクを持って喋っているのは音無さんのようなので、スピーカーから聞こえている声も音無さんのものなのだろう。今まで一緒に居ながら聞くことが出来なかった音無さんの声は音無さんらしく、違和感がない事に違和感を覚える。
前口上が終わり、演奏が始まる。ギターとベースとドラムとボーカルのバンドで、好きな人はベースの音がとか、ドラムがとか一家言あるのだろうけれど、僕の耳にはボーカルの声しか入ってこない。
知らない曲だから素人の僕には、上手なのか下手なのかは分からないが――上手なのだろうけれど――先ほど話していた時とも全く違う雰囲気の音無さんの歌は、安定感があり何よりも良く通っていた。
僕が音無さんの事を知っている事もあるだろうけれど、思わず聴き入ってしまう。
同年代で世界と渡り合うような凄い人がいるが、音無さんもその一員ではないかと思えるほどに。少なくとも、僕の隣でくすぶっていていい人ではない。
音無さんの声を取り戻す事は、今まで僕の相手をしてくれた音無さんに出来る最大の恩返しになるだろう。いや、単純に僕が音無さんに、好きな人に、何かしてあげたいのかもしれない。